あさいさんからこないだ聞いた話。同業の男性30代後半妻子のある人、もちろん私も知っている人なのだが、その人が女性の体に触ることができるキャバクラに行く話を聞かされたといあ。その人は席に着き、女性が来たら、会話をすることもなくまず女性の体を触るのだという。向こうは何か話しかけようとしてきているのにも関わらずそれは無視するのだという。あさいさんはキャバクラ自体がまず苦手なので(そんな話も出会った当初は信じがたかったのだが次第にそれは本当のことを言っているのだとわかるようになった、という経緯が存在する)話を無視して相手の体を触る、ということにも全く理解が示せなかったという。そしてそれをおかしいでしょと言うと、また優等生ぶっちゃってーと言われたという。そういった話はこれまでさんざん何度も聞いてきているので、男性のなかでそういった話にのれない、賛同しない者はそのようにたやすく軽くはじかれてしまうのだなあというのは改めて気味が悪く、もはや嫌悪をすら通り越して見通せない奥深くにまで貫通し喰いつくされた常識、固定概念があるのだろうことに自分が生きてる世界のありようを感じる。こんな話ひとつとったって、立場が違えばあらゆる意見の相違につながるだろう。でも、そういったことを話すことがやはり必要なんだろうと思う。それはダムタイプのS/Nとか見たらそう思う。決してそれは個人の体験を根掘り葉掘り聞いてエロコンテンツとして消費するようなあり方でなくて、自分がこうされるのは嫌だとかおかしいと思うとか、それであなたはどう?と聞くことができるということ。個人の感覚だけに根ざすものではなくて、自分以外の人たちの違和感や違いそのものを知ること、聞くこと、話すことが必要なんだと思う。誰かにとっての嫌悪になることに無関心でいるなんてこと、本当にそれで平気でいられるんだろうか。まあでも実際、平気で無視してそれで許されて安らかに眠りにつけている人たちはいるのだよなあ。それはそんなにこじれていることなのか?と気軽に思ってしまう自分もいれば、どんなに言ったってまるでなにも伝わりゃしない完璧な断絶でもある、という両方の思いを抱いているような。自らわざわざ考えたりもしないような人たちには最終的に世間の空気としてじわじわと伝染していく、雰囲気で察していけるほどのものにならないと伝わらないだろうと思うし、そんな状況にまでなるのにどれくらいの時間がかかるのか?とも思うけど、それでも自分自身が考えるようになっていってるのが証明であるように、伝えられ、伝わっていく空気というのが存在はするのだと思う。

 

最近はあまり何かを見に言ったりすることに気が乗らずいた。千葉の目の展示も、行こうかなと思っていたはずがやっぱり今はそうゆう展示見る気にならないかもとおもったりして行かずに終わった。何かを見に行くことは同時にすこしこわいような気もするのかもしれない。映画とか特にそうかも。新しいものを見るより古いものを見たいかもしれないし、ものすごい大きなファンタジーの物語かとても小さな自分に確かによりそってくれる物語を見たいのかもしれない。そのあいだに無数にあるものに興味を持たないような、感じ?

あとは、見たひとつひとつを簡単に忘れてしまうような気分がこわくて。良かったものが、上書きされて消えて、隠れていってしまうようで。実際にはそんなことないかなと思うけど、良かったと思った自分そのものを裏切る行為かのように思えてもしまう。よかったという感覚の思い出をまるでずっと抱きしめていたいのだというかのような。良かったものをもうすでにあなたは抱えてるのにほかにもまだ良いものを見つけようとしているの?というような、まるで、監視者がいるかのような、、。まあただ単にあちこちに興味を持つのができなくなってきているだけなのか。好きなものを愛していたいと思うとたくさんの欲望を持つことがまるでよこしまな気がしてしまって、ひとつひとつ順番に丁寧に平等に愛さなければいけないかのような、そんなものもないもは言えない気がする。よくわからない話だ。やはり、そんなの、こんなのはただの気分の話にすぎないかもしれない。自分はなにもまともに愛せないというようなことにおびえているのかもしれず、それを誰かに責められるんじゃないかと妄想しているのかもしれない。