朝、洗濯機をまわしていたら脱水が止まらない症状になり出して困り果てるがどうにか無理くりやり切る。出社も遅れる。洗濯機を屋内に設置できる部屋に引っ越したいが。午前中はそれでも会社で急いで準備などして午後からの現場の前にはま寿司で早めのお昼。何が食べたいのかよくわからない。午後から池袋で現場。前にも一度あった事のあるお客のお客さんの現場で、しかし設置するパネルが届かないのでしばし待つ。色々と現場でカットしたり等の作業は出たが小さいブースだったのですんなり終える。あさいさんはおばあちゃんの病院に行くとのことなので駅まで送ってもらって別れる。もしかして行けるかも、と検索しておいたケン・ローチの家族を想うときを有楽町へ見に行くことに。ついでに友の会みたいなのにも入会した。17時半くらいの回だったけど30人くらいはいたかも。去年からの公開ですぐに見に行きたいと思っていたはずが、なんだか少しこわいような気もしてずいぶん遅くなってしまった。描かれる世界はとても狭い。でもそこは確かに存在する世界、社会のひと場面と認識することができる。母親が、仕事の移動途中にスマホであちこちへ電話をしているカットが連続するシーンがとても印象的だった。母親、女性の役割が凝縮されているようだった。私の母のことが思い出されもした。私が小学生の頃にすでに母は仕事で携帯電話を持ち始めていたから、母が電話をする姿には見覚えがある、馴染みあるものとして私には映った。家族とは、その姿形とは一体どんなものなのか、この時代に家族はどうあり得るのか、ということが炙り出されてしまっているようだった。パラサイトの家族があまりにも結束よく出来ていてお伽話感を強く感じてしまったのだが、家族を想うときはそれとは全く違う方法で家族が描かれてしまった、そのシビアさが残酷のように見えてしまうのだが、私にそれがいかに残酷なのかが本当によくわかっていると言えるのだろうか。自分がとても疑わしい。以下ツイッターから。

ケン・ローチの家族を想うときをようやく見た。前作よりまたがっつりつらい終わり方になっててエンドロールに移り変わった瞬間、客席は愕然とした空気で静寂に包まれたようだった。私は兄と妹の子供たちに自分を重ね見ていて、労働力が搾取される社会における家族という形のいびつさ、ツラさを感じた

この映画の中の家族はあたかも実際的には思いあっているようでいて本当はそれらは偽りのらしさなのではないか?と疑りを持った。家族をみんなが演じていて、それぞれの役割を果たそうと一生懸命で、だからこそ噛み合わなくなってしまう。家族を壊さないよう、維持するために、家族のためを思っている

一度もってしまった家族という形は簡単に崩せない、そうゆう意味で家族という形は恐ろしいと思った。でも家族を持つことの幸せはきっとたとえ一瞬でもあるのだろう。だけれどそれを失わせていくのは今の社会だ。その社会がまさに私がいる場所だ。警官が語る未来はあまりにも寒々しくてそこはどこ?

イギリスで作られた映画とはいえ、それは自分のいる国とは違う国の社会だ、とは思えないくらいにはイギリスと日本にもそれなりの均質さを感じる

家族という形がどんどん苦しめられていく、そうゆう意味で家族というものの脆弱さを感じたし、それは程度は異なるかもしれないが家族という共同体の普遍的なものののようにも思える。でもそれは自分の育った家族が茶番的なものだったからそう見えてしまうに過ぎないのか…

はたまた万引き家族を引き合いに出して考えてみたところただ万引き家族のことを考えるに至り、自分の中ではワンダフルライフ、空気人形に連なる群像劇として万引き家族を見てるのかもしれないな?と思ったりして。うまく言葉に言えないが

帰りにプチメックに寄ってみたがすっからかん、やはり現場あとなので疲労感でどっと体が思い気がするが買い物して帰宅。サラダや鮭を焼いて夕飯。