土曜は出勤、日曜は美容院と引っ越しの手伝い、寒いのもあったしさすがに疲れが溜まっている。月曜日なのに朝から全く仕事をやる気がわいてない。ひとりだったし、急ぎの仕事はなかったので何かをやっては休む繰り返し。すっぴん!が国会中継でほとんど放送がないので寂しい。なら国会中継を聞けばいい、と思うが聞かない。なぜだろう?なんか聞いてたら胸糞悪くなってしまう気がして、短気で、聞いてられないと思う。国会という場は自分からあまりに遠く離れているようで、あの空間、部屋は、気持ちが悪いと思ってしまう。だけどこの国のこと、暮らしのことはあそこで決められていく。その剥離は信じがたい。もっとよく知ろうとするべきなんじゃないかと思うのに、知ろうとする踏ん張りが自分にはないようだ。政治家という職業の人たちを知らなすぎる。

お昼に朝ドラのスカーレットが流れてるのをスマホを見ながらぼんやり聞いてたら、弟子入門していたみつが出ていくという展開になっていて、「男だったらよかったのに」というセリフを言ったところだけあまりにハッキリ聞こえて顔をあげて反応してしまった。その前の話の流れをちゃんと掴めていないとはいえ、そのセリフはその役の彼女にとって隠しようのない本音を言い表しているように感じられて引き付けられた。私は子供の頃から男になりたいというふうに考えているタイプだったが、特に大学生の頃の女であることの苦しさを振り返ってみると、その当時に限っていえば男だったら良かったという言い方ではなく、男と同じが良かったという言い回しがしっくりくる、つまりは男であれば良かったという意味なのだが、あくまでも男と同じが良かった、という感覚で言い表せるのは、同じゼミの彼らが男であったからだ。私が負けたくないと思い、同じでありたい、同じだったら単純に性別を意識せず同質なものとして共有できるノリや理解をもてるはずだからその彼らと同じでありたい、彼らは男なのでつまり自分も男だったら、彼らと同じ男だったらと思っていた。と言える。私がうらやむ存在はたまたま男だった。たまたまというか、誰が見たってそうだとわかる差異として、と言えるし、辛苦を味わうよりはそんなのに全く惑わされずに済む立場に自分も立ちたいという欲望だったのだろうか。小学生の頃に、なぜ男女に分かれた名前の順の名簿で男たちだけが先に呼ばれるのかということが不思議だった。でもそれは誰もが受け入れ納得していて当然なのだ、そうゆう仕組みなのだという世界が立ち上がっていた。なんだって男子が先のようだった。女子は待たされて当然。男が優遇される、男の方がどうやらお得らしい、そう見て、そう感じるのもまた当然のことのように思える。自分も得をしたい、得になれる方になりたい。しかしそのように感じていたことも、医学部受験の試験で女性や浪人生たちがその属性だけで減点とされていた報道を聞くと、本当にそうなんだ、私が子供の頃に直感で感じていたことは本当にそのままそうだったんだと思うと、子供だからこそあるがままに判断をしたことの濁りなさを感じなんだか感動してしまいそうになる。同じであることを望むのは、つまり同じでないからだ。けれどそのことに抵抗を示すことすら難しかった、今でも難しい、それは許されていないのだと何度も思い知らされるのが最近で、でも今こうやって少しずつ広められ広まっていく状況は悪くなくて、だからこそああもっとはやくはやくこの状況があったのならと思ってしまう。私がもっと若い頃に女性であることはどうゆうことか、に出会えていたならと、過ぎてしまった過去に悔しさを少し感じてしまう。誰も教えてくれなかった。私は何も知らなかった。