毎日歩いたり電車乗ったりバス乗ったりして会社に通うのってほんとしんどいな。疲れるな。私には無理だなとか思ってしまう。久しぶりにあさいさんに会った。午前中は作りものして西濃に発送に行くついでにデニーズでお昼を食べた。その後はあさいさんがおばあちゃんの葬儀に行くので15時くらいで閉める。駅まで送ってもらい、水曜日だからと何か映画を見ようと画策していたが電車に乗ってもなお一体どの映画を観ようか悩む。候補はフォードVSフェラーリジョジョラビット、イーストウッド、これか、これか、どれか、時間と場所とで都合良い作品で、と思うんだけどどれも本当に今自分が見なきゃいけないのかと思うとなんか引っかかる。なんかそんな気楽にエンタメとして映画を見たいってわけでもない。お金も映画を映画館で見られる時間も限られている中で、自分が本当に今見たいと思うような、見なきゃいけないものってなんだ?と思うと水曜日だからってレディースデイなんかやってないイメージフォーラムに見るべきものがあると思えた。歳をとって来たら、興味あるものがどんどん増えていく。知らない物事の多さに気づいていく。聞きたいものも読みたいものも見たいものも無数にあるようだ。でもだからって全てに触れることはできない。だからちゃんと選ばなきゃいけないと思うことはある。私はなんにでも安易に手を出しすぎたり、あれが気になってたはずなのに今目の前に飛び込んできたこっちについ手を出してしまう、あれのことは置き去り、そのまま忘却、なんてことがよくある気がする。だからそれを見直していきたい気持ちもある。

そして坂上香監督のプリズン・サークルを見た。こないだアニエスヴァルダを見にきたときに予告で見ていて気になっていた。って言うかもはやイメフォで見る予告は全て気になるしこれはもう会員になって料金に臆することなく気兼ねせず見にこれるようにならなければいけないと思ってついぞ会員にもなったのだ。島根県にある刑務所、島根あさひ社会復帰促進センターでは日本で唯一TCという回復共同体のプログラムを取り入れているという、その刑務所内を2年にわたり撮影したという。ユニット、として30〜40名ほどで半年〜2年の参加期間にわたり教育(と参加者たちは言っていた)を週12時間受けていく。ここの刑務所自体が官民協働で運営されているが、整列して大声で番号で自分の存在を発したり、刑務官と口をきくのも挙手制だったり、食事中は私語厳禁といわゆる日本の刑務所的な規律と管理がなされている。でもこのTCというプログラムの時間では支援員という外部からの専門家たちとともに全員で円座になったり、3〜4人のグループでの語り合いも多いし、ときに受講者たちが司会進行役や書記を担って話を進めていた。みんな分厚い書き込み式の本というかノートを手にしており、おそらくそれを元に自分の過去のことや犯罪のことを振り返り、向き合っていく過程を経る。映画内では4人の青年をピックアップしていて、それぞれの幼少期、家庭環境を振り返る語りが砂絵のアニメーションで綴られる。このアニメーションの若見ありささんの作品は前に他の何かで見たことがあるように思うけど、これはまたとても良かった。指で形作られる砂絵は消えてはつながり、ふくらんではしずんでいく。大きくなった自分が小さかった頃の自分をもう一度たどり直す過程に見ているこちらもすっと入っていける気がした。詐欺や窃盗、傷害致死、それぞれの犯した罪に対しての捉え方は決して同じではない。なぜ悪いのかがわからないと言う発言に、少なからず驚くが、なぜわからないのか、それはその理屈があるのだと思った。それは育ってきた環境で生き延びる術として体得してきているものであり、それ自体が良くないことであってもその術を今ここで否定しても言われた方には届かないのかもしれないと思う。であるからこそ、どうすれば罪がどうして罪なのかと想像をめぐらすことができるようになるのか、それをこのプログラムはおそらく何度も繰り返し様々な過程を経ながら、時間をかけながら自ら理解できるように進む。またここでは共同体であると言うことが大きな意味をなしているのだろうと思った。自分の話をみんなの前ですること、また様々な立場の他者の話を聞くことで自分だけではわからなかった見えなかった世界を広げていくようだった。人の心の複雑さが、こんなふうにストレートに示されるなんて、という驚き。自分では思いもしない、考えもしないような思考を他者はする。その違いに驚いてしまう。普通、大多数、というのはきっと無数の枝分かれの中でも単に多くの人が選びやすい太い枝にすぎないのだ。でもそこで他に無数の分かれがあることを忘れてはいけないし、違うからと言うことで否定してはいけないのだ。その違う人の話をいかに、どのようにして聞くことができるだろうか。以下ツイッターで書いたもの。

イメフォでプリズン・サークルを見た。日本で唯一TCという回復共同体のプログラムを取り入れた官民協働の刑務所が島根県にあるという。そこでは何が行われているのか。人の心とはこんなにも複雑なのだと思った。無数に枝分かれたひとりひとりの心の奥を共同で受け取り合う。それはすごいことだと思った

だってこんなこと普通みんな容易く出来ないよね、こんなに言葉にして話したり書き出したりするなんて苦痛を伴うはずだしずっと考え込まなきゃいけないだろうと思うと。犯罪傾向の進んでいない受刑者、と区分けされる彼らと私とでは何が違うだろう。でも確かにそれぞれに違う家庭環境があり、その違いを

私たちはどう受け止められるのか、ということだろうか。違いを軽蔑したり無視したり、見ないことにして知らないことにして、なのに結局見えることだけで判断する。自分がわかることでしか判断できないのなら、分からないこと自体を知り、わかることを増やしていく態度を欠かしてはいけないと思った