午前中のうちにメールを返すなどする。文章を書く、伝えようとするという行為がたまたまながら頻発してくるとなにがなんだかわからなくなったくるような、もしくはなんでもいいや、それは投げやりなんではなくてなにかを怖れなくていいのだ、という意味合いで、なってくる。何かを何かで説明する、形容するのか比喩にするのか感嘆で言うのか、という選択にしても適切なものはありうるけどなんだかよくわからないままどれかを選びがちな気もする。また出かけるのが昼になってしまう、ああ昼ごはんどうしようと思いつつコンビニでなにか買えばいいかとする。清澄白河へ。コンビニでたい焼きみたいなのを買って都現美の外のベンチでたべる。また混んでるのかなと予想していたが、チケットの列は別に外に伸びてもいなかったし、ほんの数分は並んだけど先月に比べたら全然少ない。ダムタイプだけでも12月に見ておいてよかったとはつくづく思う。今回はMOTアニュアル。なかなかよかったな。COPY TRAVELERSは大阪で見たときよりもさらに良かった。一枚の横ものにバックライトで仕立ててるものはなんかなんとなく今津景さんの絵画に似た荒波のような平面さを感じた気がする。どちらも好きなのだが。あと吉増剛造プロジェクトはやはり吉増さんという人が自分を素材としておしみなく差し出せる人なのかなと思う。キューブのスピーカーはまるで海からの漂着物のようでここは砂浜かのような錯覚さえ起こされる。テトラポットのようでもある。波の音のようでもある。

そのあとダムタイプの最後のイベント、ラウンドテーブルを聞きにいった。わりと素朴に疑問に思うダムタイプという集団、集まり、仕組みが本などで見聞きする以上の肉感として伝わってきたがする。特殊な人々の集まりだとは思う。バラバラな個でありながらまとまりを保ったいられるのはやはり維持された、守られたラインがあるのではないのかなと思った。なぜこのようにして続けていられるのかが気になっていて、インタビューとか読んでも掴めきれなくて、でも高谷さんが言ってた新しい人が入ってきてなにがダムタイプなのか?ばらばらなものをひとつにまとめていくシステムがダムタイプなのではみたいなこととか、クラブカルチャーの強い影響、学生時代からずっと一緒にいたことの共有、それらがやはりもとにあることで現在につづくダムタイプを構成するにあたっても結界が張られているのだろうという風に感じられた。人がたくさんいることで責任が分散されるのが良いとか、クレジットで役割を結びつけてないのもそうゆう意味あいからであるとかの話もそういった捉えなんだなと確認できた。濱さんが高嶺さん池田さん高谷さんはみんな似てる、ギリギリまで作品を完成させない、しそうになると一度こわすところが同じと言っていたのはまあそうゆうものなんだろうなと想像する。おもしろいけど。

終わって17時前、なんとチケットの行列がずいぶんできていた。え、あと1時間で閉館なのに?とびっくりしてしまう。せっかく来て、並んでも時間が限られるのは辛すぎないか、と思ってしまう。それでいいのだろうか。頭痛がしはじめてるので薬を飲んで、そのあとコレクション展を見た。頭痛でそんなによく見えない。

お昼をまともに食べていないのもあるかもしれない、もう夕飯作るのは無理と思ってとんかつ屋でお弁当を買って帰宅。日記を数日分まとめる。