11時に科学技術館の前で母と待ち合わせて三陽商会のセールに行く。母は父と車で来ていた。父はただ車の要員であり昼ごはんを食べるために来たんだろう。私がここで買う服はマッキントッシュくらいなのだがマッキントッシュの丈夫そうな服を半額以下で買うことを私はお得に感じている。夏用に探したいと思っていた白いパンツとうすいブルーのシャツを買う。なるべく丈夫でスタンダードなかたちの洋服を買いたい。長くくりかえし気に入って着れる服はストレスをひきおこさない。お昼を東京駅の方へ移動してつばめグリルで食べる。姉家族のはなしや、いとこのsのはなしなどを聞く。sは横浜の方に住んでたはずなのに、結局奥さんの実家近くの西武線沿線に家を買い、そのことを全然うれしくないとか言ってるとかなんとか、なんじゃそりゃ、と言ってしまうような話。子どもも2人目がうまれてすっかり父親なのかもしれないけど、私の中ではsならそうゆうこと言うんだろうなあって感じもしている。しかし、こんな話を聞いていて、その場にいて、なじんでいて、うわなんだこれはっと思う自分もいた。昨日話していたような既存の形の結婚や家族という形態への違和感というかそこから外れていく可能性みたいなものと正反対というか、まさにその既存の形そのものを私は今ここでやっていると思うと、うへええええという気持ちと同時に、そう、ちょっと体の向き、角度を変えれば私にはこういった家族らしい家族像のなかの一員になることができる、できてしまうのだとわかる。なんか、ふだん一人暮らししている自分やそこで考えていることとの剥離がすごすぎて、ぎょっとしてしまった。でもそうやって自分には当たり前のように両親がいて姉がいて、親戚がいて、それが当然でむしろうざったくもあって、それは勝手につながれてしまっている、自分の四肢が紐で縛りつけられているような身動きの取れなさのように感じてきたと思うけど、それも今ではまた違う感覚になっている気がする。そして、血縁の家族や親戚というのは、機能としては活用されるものであって、それがあるとないとでは全然違うものなのだということも感じている。

そのあと丸善のカフェでコーヒーを飲んで、そこでも、親子という形態でありながらでももう何か違う、ような感覚が自分にはあった。それはなんだろう。去年の旅行で両親に対して決定的に嫌悪や軽蔑をむけた経験がなにか関係しているだろうか。でもそれのおかげで私は以前より親ばなれが進んだように感じているかもしれない。それより自分のことを考えたい?のだろうか?まだよくわからない。

それから別れて、日比谷まで歩く。トイレに行きたくてキッテに入った。空間だけが広くて、良いのかどうかよくわからない。風がとても強い。プチメックで久々にパンを買う。シャンテの本屋で買いたい本は置いてなく、でもなぜか東直子さんの短歌の本を買う。野菜を少し買って帰宅。

今は日記を書くことにかなりメリハリがついているような感じがある。年始くらいからツイッターを控えようかなとかなんとなく思ってて、自分でもそれははっきりした理由があるってわけでもなくて、ただなんとなく、なんか、ツイッター読むの疲れるし、書く労力を割くわりにはむなしいし、もっとちゃんとまとまりとして書き記しておきたい気はしたかもしれない。ツイッター用の文章を書くのに飽きたのかもしれない。ツイッターの型に自分もハマってツイートをすることは麻痺した快楽がある気はする。それは誰かの真似事のような、みんながやってるのと同じことをするといったこと。同じフォーマットにのるということ。でも本来的に自分はそうゆうことするの、無理がある気もしていた。あまり良くないことのように思えてきた。そんなところかもしれない。そのてん日記は日記なので日記だった。ツイッター用じゃないことを書いていいんだなあみたいな感じがある。日々はつながっていて、連続している。その日々は常に違いうる。それを捉えておきたい、といった感覚はなんとなくずっとあるもののように思う。

ものごとを正確に見て、考え、判断することだけが正しいのではなく、思いこみや一種の間違いで見て、考えて、判断してしまうこともあるとき、そのこと自体をまちがえたっ!と簡単にほおるようになかったことのようにしてはならないんだろうと思う。それは罠でもないしだましでもないしできた人できなかった人と振り分けられるものでもない。私はそのような見方をした、ということを履歴として記録しておきたい。でもその記述自体がまだまだぜんぜんぜんできないのだ。