3連休したところで体が改善したかといえば大してそんなことはなく、むしろ、全然よくなってない、疲れがでていってないなあということを実感していた。なのでまた仕事したら体痛くなるんだろうなあとは思っていたけど、またひいこらつらくて大変だった。自分の体をどうにか動かし、引きずって、無理に無理を重ねてもまだどうにか無理はできたりする、ということがなんとなくわかる。いったい体か、気持ちか、感情か、もしくは何も考えられないという虚無か、どれか何かが体のどこかからの力をしぼり出し動かしている。疲弊しているという声は聞こえてるようだが抹殺される。つらい、といってへたり込むよりも、この体をどうにかして動かして、使って、ものごとを終えたい。そのようにして体は利用できるのだなあとか、なんかそんなことを感じる。結構他の会社は展示会やらイベントやらの中止で仕事がなくなってヒマだという声も聞こえてくるから仕事があるのはラッキーなことなのかもしれないが、この先の不安はうちの会社も他人事ではないよなあと思う。お昼のNHKなんか見てても、政府の人々は毎日いっこうに誰も何もしてないような、そうゆう発言と態度で、ああきっとぜんぜん良い状況に向かっていかないんだろうなあって思い描く。毎日言葉がすべっている。何かを言っているようで、ただすべってる。なんにも残ってないのに、それでも支持率のある数字は、あれはいったいなんなんだろうな。この国の奇妙さ加減はいったい誰がどのように測りうるのか、もうぜんぜんわかんない。

帰り道でピザまんを食べたし、帰宅してもぐったり、湯船に入ってそれだけで行為がおなかいっぱい、夕飯食べる気にならないのでナシ。

今日のすっぴん!でダイヤモンドユカイさんが10代後半くらいからの若い女性はだいたいみんな自分が一番きれいだと思っている時期がある、そうゆう時があるものだ、それで20代後半になっていくと自分より若い人たちが出てきてもうそうじゃないと気づく、みたいなことを言っていたが、それぜんぜん違くない?と思った。10代になって気づかされるのは自分のコンプレックスだ。人と比べ、世間で良いとされるものと比べ、お金もないからそのコンプレックスの数々をどうすることもできない、そのことに打ちのめされて絶望する。自分がきれいだと思えてうぬぼれていられるなんて、いたとしてもほんの限られた人たちじゃないの?と思ってしまう。いくら若さがこの国でもてはやされているからって、若いことが売りになる、期間限定の高値だと本人たちが自覚させられていたって、それでも自分にとっての若いということの具体性を自覚することはしきれるものじゃないと思う。そのうえで若い時代に自分の美しさをまっとうに肯定なんて、していられるものかな?それよりも私は圧倒的に恐怖、おそれがあったように思う。自分の醜さが嫌で嫌でたまらなかった。鏡にうつる自分のいびつさが嫌で、鏡を見ることも避けた。それに比べれば、年をとって、稼げるようになって、それによって初めて自分のコンプレックスなどもお金をかければどうにか誤魔化したり変えることができるようになって、気持ち的にずいぶん楽になっていると思う。あきらめや開き直りだってある。だから私は若い頃の自分より年をとった自分の方がよっぽどマシだと思ってる。シミができてシワができてハリも艶も失われても、若いころの苦しさからは解放されている。もちろん自分がきれいだ、という実感をもって過ごせてる人たちもいるだろうけど、女性の顔面、ルックスにおけるコンプレックスの解消って、完全がないような気がして。コンプレックスを一度抱えたならば。そもそもユカイさんの発言は若さを無条件に良い美しさとして認定していて、年をとることを衰えとして見下しているように聞こえるものだった。たしかに若さというものが持つ輝きや美しさはあると思う。けれどそれは個人個人がそのつど感じとるものであって、絶対的なものではないはずだ。それを固定した価値として位置づけるのは危ういと思う。若さって、その渦中にいる人とその若さから外れた人とではずいぶん違う手ごたえのもののような気がして、その隔たりの違和感みたいなものは永遠に消えないようには思う。

とにかく腰はいたい。どうしたものか。