渡良瀬橋って神田川と似てるなあと思ったんだけど、でも宇多田ヒカルの歌とも似てるよなあと思った。宇多田ヒカルは母親からの歌詞の影響があるとしたら、それは筋が通るのではないか?と、よく知らないのでなんとなくで想像した。それらは自分で弾き語るとはじめてわかることであって、ひとの歌をできあがりとして聞くこととひとの歌を私がギターを弾きながら歌うことでは言葉の捉えられ方がまるでぜんぜん違う、変わってしまうのだということにはものすごい革命的なものを感じるのだが、決してそのことは大々的な発見として常識としてでかでかと掲げられ世の中に共有されてるわけでもないというのが奇妙ながたつきに思える。でもこんなこと誰に言ってもなにも伝わらない気がする。私が感じている驚き、信じられなさと同時にある説得力。渡瀬橋や神田川で描かれているものは、私は少しはわかる。銭湯とか公衆電話とか、子供のころには普通に利用していた。でもすごくよくわかりはしない。そこにいるひとの心理がよくわからない。よくわからないな、というところもあって、だからおもしろいと思っている。宇多田ヒカルの場合はそんなこと全然なくて、というのが大きな違いではあるが。

そろそろ美容院に行くころだが髪型をどうするか悩む。こないだ行ったときに、また短くするんですか?と言われて、いやもうすこし伸ばします、むすべたほうがラクなんで、と言ったら、ではなぜ夏に短く自分で切ったのかについて問われ、それは、、切ってたら短くなったんです…と答えるとなんとか納得してくれた。何気にチクチクなんどもこのことは問われていたのだが。やっぱり髪の量が多くてもわもわするし、顔も頭も大きめサイズの私には短い長さを保つのは大変だし、無難でおさまりのよい髪型に落ち着いているべきなのだろうと答えを出していた。でも、ほんとは自分の好みとしてはショートのボーイッシュな感じなんです、男の人のシチサンで全体をわけたような感じとかすごく憧れるんですけど私の髪じゃ無理だなあと思って、と言うとTさんは、まあパーマをかければできないことはないですけどね、維持するのは大変ですね、と返してくれた。へえそうなのか…と思いつつ、髪の量が多い人はロングヘアにしてる人が多いですねーという話も聞き、やっぱりそりゃあそうよね、そうゆうものよねと確認をもった。今はまた肩につくかつかないかくらいの長さになってきて、じゃあ今度は外ハネのパーマかけるとおさまりもよくなりますねそうしたいですね、なんて話をしたのだが。

おそらくこの話をしたことで、自分の中に疑問がわいてきた。私は自分の好きなように自分の髪型をしたらいいのではないか?もしくはそれは試してみるべきなのではないか?と。私の髪型は誰のためのものなのか?と思うと、私のためでしかないはずだ。なのに私はそれをまるで誤魔化している。そんな髪型私には無理だから、というのは一体誰のなんの基準なのか?もちろんこれまでに短くしたこともあって、そうゆう経験上からはじき出されていることではある。でもそれは本当にあきらめて良いのだろうか。

坂田靖子のおばけ地帯で描かれる少年たちのように本当はなりたい。子供のころの少年に対する自分の重ねあわせの原体験はこの漫画なんじゃないかっていうのを数年前から思っている。想像だけれど、小学生のころの自分はまだ男と女という性別の境があいまいなところがあって、というかそれは当然みんなそうなんじゃないかって気がしていて、ゆらぎがまだ許されている、100パーセント自覚するにはまだ要素が足りなすぎるというか、その場合、少年の姿に自分を重ね見ることは容易なのではないか?と。幼ければ、棒のようにのびた細い手足の姿に男女の差をはっきりと読み取らなくてもおかしくはないのでは。あったとしても薄いのではないか。おばけ地帯のなかでは両親などの大人はかなり規範的な姿で描かれ、むしろそれは滑稽さとしてうつるくらいで、そこからはみ出た子どもと異質な第三者の交流が物語をたちあげる。よく考えれば大学でひとめぼれしたrくんはここで描写されている少年たちに実によく似ている。私がなりたい男の子のイメージそのものだった。そんなこと思わされたのは彼が初めてで、自分にはそうゆう欲望があるのだということも気づかされたわけだ。

けれど私はまるっきり男になりたいわけではないのだった。その辺のことが自分でもよくわからない、言えない。むずかしいな。私は女で、それでいいのだけれど、どこか許せない。それは女を押しつけられるのが許せないのか?ということを電車の中で少し思った。大竹伸朗さんがランドセルがきれいな状態なのが嫌で傷つけたりしてボロボロにしていた、みたいな話を聞いたとき、それ私もしてた!!とそれまでまったく思い出すこともなかったことを思い出した。私の場合、ランドセルがきらいだったんだと思うけど、なんで嫌いだったんだっけなと思うとさすがに覚えているものがあるわけではない。頑丈さが嫌だった気もするし、学校自体が好きじゃなかったというのもあるかもしれない、赤色が好きなわけでもないのに赤色のランドセルなのが嫌だったかもしれない。私の時代はまだ男は黒で女は赤のランドセル、というのが当然でそれしかなかったように思う。ほんのわずか、赤茶みたいなおしゃれな色のものを持ってる子がいたかもしれない。なんかよくわかんないけど憎かったというような気はする、ランドセルが。女は赤色、と決めつけられているのは上履きもそうだった。そうゆう押し付けに、反発心があったかもしれないと思う。そう思えるのは、だって今もそうだから。

髪型なんてどうでもいい、どうでもいいように切ってもらって、どうでもいいように伸ばしっぱなしでいられたらどんなにいいだろうと思う。顔が小さく見えることが絶対で美で尊くて、大きく見えることは晒し者のように嘲笑われるなんてことがなぜ許されてしまうんだろう。なぜそれしかないんだろう。そうゆうものにどうやったら抗えるだろうか。男の人は多くがショートカットで、それで平然としているのがすごくむかつくような気がする。ずるい。私にはなれない。

 

仕事終わりで久々に皮膚科に行った。大宮で乗り換えで10分時間があるからとエキュートの花屋にふらりと入ってしまい買ってたら乗ろうと思ってた電車に乗れずまた10分待った。気づくと、電車に乗ってる人の9割くらいはマスクをしていて、ものすごく驚いてしまった。平日はふだんほとんど電車に乗らないから、自分はものすごく世間とずれているのだろうか、と心配になる。まあ仕事に出てる以上しなければならないという立場の人が多いだろうとも思うけれど、なんだかなんだか全然よくわからなくて、ついていけなくて、マスクをつけていない自分はそれだけで軽蔑されてしまうのだろうか?と思った。私はどこかでウイルスにかかってみたいと思っている、そうゆう自分もやっぱりいるとは思うけど、それとマスクはまた別の話かな、どうかな。