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女が感情的だと揶揄する文句として言われるのって、女が感情をもっていることを感情的だと言っているに過ぎないんだなと解釈すると、男には感情は一切ないってことなのかあ?はあ?全く意味わからん…って思ってきたことも解決される。まさかそんなちんちくりんなことが堂々と使いまわされてるなんてそれ自体理解しがたいことだが理解しがたいことをどうすんなり理解するのか、というのは大事なのかもしれない。自分が感じる違和感はなにかがあるということの大事な知らせだ。でもそれでも必死にそんなこと言われないようにがんばらなきゃって思ってた。そんな得体の知れないくそみたいな言説をまず持ち出されたりするもんかと。でも誰にだって感情はあるじゃないか、なぜ男の激昂は感情的だと言われない、言えないのか。だれがそれをジャッジしてるんだ。私はやっぱり感情を隠すなんて嫌だった、その方がかっこ悪い嘘つきだと思った。だからまあ人前でもがんがん泣きわめきたい気があったりするな。泣いてみせる、むしろ、どうだ、私はこれだけ泣いてみることができるのだ、と、本当はさけびたいだろう。実際はそんなとこまで考えていられないが。

大学生の頃、mちゃんと私でどちらかが男であれば良かったのかもしれないと思うことがあった。あれは一体いつの頃だったのか。特別何かの趣味が合うわけではなかったが、なんとなく気があった。好きなものとか興味あるものもよく考えたら結構ずいぶん違ったのに気があうという感覚はあった。これで恋人になれたら良かったりするんだろうなあと私はぼんやり思っていた。でもおそらく私たちは同性を好きになるという感覚がなかったし知らなかった。異性を好きになり、付き合うことしかイメージすることができなかった。今思うと、なんでそんなふうにしか考えられなかったんだろうと思う。なんか残念だなと思うんだけど、でも当時の限界なんだろうなと思う。その時mちゃんに提案できてたらどうだったんだろう。4回の時、O先生の家での卒研中間発表的集いの時だったと思うけど、もう明け方で先生は酔い潰れててよく私も起きていたなあと思うけど、Tさんが夢だかなんだかでTくんとセックスするイメージを見たとかで俺はTとならいけると思うんだけどみたいなことをなぜか急に話し始めて、私はへえーそうなんだーと呑気に聞いていたのだが当のTくんは、いや俺は無理ということを速攻で示しはじめたので私はそれをすごく意外に思ってしまったのだ。えーなんで無理なんだろう?Tさん超美形なのに、その誘いを断るのか、、まあTくんも美形だけど、だから美形同士でいいのでは?悪くないのでは?みたいなことを勝手に心の中で思った。口には出さなかった。意外という驚きで、口に出せなかった。変な映像ばっか集めてるのにそうゆう未体験には興味ないのか、という意外。そしてそれを拒否する姿勢を見せなければならないという焦りというか、嫌悪感みたいなものは一体なんなの?という疑問、わからなさ。今度会ったときにはこの話をしてみたい。その当時の私のその思考もずいぶん軽率なもののような気はするんだけど、すごく象徴的な出来事だった気はしているし、なんかなあそう話を聞いてても自分ごとにそれは置き換えられたりはしなかったのかあというのがやっぱり残念のような。よくわからない話だ。

 

今日は4時半起きで現場。なんだかまたなんなんだろうこのおじさんたちというイラっとが少し出てしまったが、もういいや、たっぷり丁寧にやってやろうじゃないかという気になってもうあとは気にしないことにした。よくわからない見栄とか、中途半端さとか、意味があるんだかないんだかの視線とか、私には理解しがたいものでこの世はそれでも動いてる。マスクしながら作業するのは苦しいな。寒いのもあってトイレに行きたすぎて膀胱が苦しい。でもダウンベスト着て腹巻とレッグウォーマーはしていってたからマシだったかも。車に乗った途端グチばかりをひととおり吐きだして笑う。しばらくはちょっとした現場とちょっとした作りものの仕事でやっていくしかないと思うんだけど、でもそれもいつ途絶えるのかわからない。続く保証なんてない。今年の誕生日の頃なんてほんとまだまだ呑気だったんだなあと思う。オリンピックのためにまた来年もビッグサイト、メッセが使えないなんてことになるならほんとわけわからないよなあと思う。今年の夏で終われば終わるんだ!と終わることを待ち望んでいたのに、今年終わらないのか、というショックがそれはそれである。