またインスタでロビンさんが演奏動画をあげてて朝から声をあげる。ロビンさんの声とは。なんかそうゆう批評や分析の記事とか読みたいよなあ。バンドによらないものとして。20代と40代になっていく声とではやはり違うものがあり、その声の変容、変質ってどう語りうるものなのか?歌声とはどう使われてるものなのか?不思議に思えてくる。

昨日ドミューンで久しぶりにファンシー絵みやげがやってるのを見たんだった。最初の15分くらい見逃して、夜ごはん作りながら見たが、今のコロナの影響、状況のもとでの観光ということについて喋ってたらなんかどんどん暗くなっちゃうし話も行き詰まっちゃうしで、ええええ大丈夫?と思ってたら宇川さんが見事に文脈を投げ落としたので見事だった。さすが。こうゆうことができないとなんだなあと思った。できないとだめというか、そうゆうミクロからマクロになるような視界の広がり、視点の切り出し、提示があることで急にものごとの面白さがふくらむ。そして途中から打ち合わせに来ていて居合わせたという黒瀬さんも参加し出したことでより一層文脈に接続していく。でもなんか後半飽きてしまった。なんか、文脈で語られすぎるとそれはそれで今までの絵みやげと違うような気もしてしまい。

テレビでは出演者の人たちがみな間隔をあけて立ち、座り、まるで前からそうだったみたいに喋ってる。ソーシャルディスタンス、というそのぽっかりあけた距離、間隔はなんだかおもしろい。私たちは無駄にくっつきすぎだったのか?ラジオではアクリル板のついたてをしてるとか。今日のたまむすびは赤江さんが気管支炎とかで自宅からの電話で終始参加していておもしろかったなあ。こんなんもありなんだ、というのがよかった。

来週からはもうずいぶん仕事はヒマかもしれない。まあでもとりあえず会社としてお金は金融公庫から借りる算段だと思うし、稼ぎ、収入が減ってもなんとかあさいさんと私が食いつないでいくことはできるのではないか、多くを望まないしばしの貧しさに耐えれば、というような気もしてきていて、どうせ不安しかないと思ったら私ひとりでおびえたところでどうしようもないことなんだなといくらか開きなおる気も出始めている。もちろん不安は消えないけど、こわいし、憂うつだし、相変わらず朝目覚めてはもうコロナウイルスが一切なくなった朝なのかもしれないと思いたがっている高揚があるが、テレビをつけて、ああ、そんなのなかった、とコロナウイルスがとびかう世界で今を生きていることを実感する。

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