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まいばすけっとに水と牛乳を買いに行くだけの外出をした。「マイ・フレンド」を読んでいると、とにかく17歳でこんな生活を、暮らしをしていたのかということに驚くばかり。まず働いている、父や兄たちと暮らしながら、家にお金を入れながら病院に通いながら会社からうるさく注意を受けながら同僚の人や病院で知り合った人々を自分の眼でよく観察して、自分の意見をはっきりと言葉にして記している。フォークソングや自作する楽器、レコードへの尽きぬ高まる興味、そのためならお金がなくてもその都度誰かに借りたりツケにしといてもらう。身軽にひょいひょいあちこちへ移動する。渡さんの曲がなぜあの形なのか、形式なのか、といったことがひもとかれていくようだ。ああすべてには由来があるものなんだと思い知る。なぜその表現なのか、なぜその表現を選びとり、なぜそう表現し続ける姿があったのか。他にもとにかくいろいろ興味深くておもしろくて66年頃でも有楽町から大宮まで京浜東北線でかかる時間は今とそんなに変わらないっぽいのか?ってことなんかでも面白い。日記を書き記している時間については詳細に書き記していて、その日に書けなかった場合、実際は次の日の何時ごろに書いている、ということまで記している。私も昔はそうゆうふうに書くことがあったなー!とか、日記あるあるににやける。

BSで録画しといた「山猫」を見始めるが、これはどんなあらすじが知っておかないと見る気が失せてきそう、と途中で思う。途中で止めて、ネットであらすじなど読む。え、これだけ?とか思っちゃうが、見ものはラストの数十分にあるらしい。まあ確かに映像の大きさはなんだかすごい。でもこうゆう貴族ものとかって私あんまり得意じゃないんだよなあ。

youtubeタルコフスキーのストーカーのラストシーンだけをあげてる映像を見て、あ、そうか、ロングデイズジャーニーで見たコップのシーンの既視感ってこれじゃんねえと気づく。遅い、おそすぎる!と妙にくやしい気分になる。でも他の映画でもよく見るような気がしてしまっていたと思う。それがみんな源流はストーカーなのかどうかとか、それをどう自分が信頼しようとするのかとか、もうそんなのわけわかんなくなっちゃうじゃんと思うが。またミニシアターでタルコフスキー特集が組まれる日々が戻ってきてほしい。

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もうなんか日記がいやになる気持ちもある。書こうと思うとめんどくさい。でもそう思った次には、でもそれでも、と思う。日記に書かなかったら何もなかったことになってしまう、という恐怖心は毎日書いてたらそりゃあわき起こる。それはあるしでもそれだけじゃない。書いてたって何もない。何もないことの証明だ。