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タワレコで買った石原洋さんのCD「formula」が届いた。downyの新譜買う時に一緒に買おうか迷って買わず、でも結局買って。最初に情報が出たときにジャケットの仕様については読んでいたと思うけど、坂本さんがデザインしているということふくめ、それでもすっかり忘れていたようなところもあって袋をあけて驚いた。ああ、こうゆうことなんだ、と。これはLP盤でもってたらまた全然違うというか、いいものがあるだろうなあと思った。ただ、紙ジャケの上にプラスチックシートがついているのはCDだけの仕様なのだろうから、これはこれでとってもすばらしくっていいなって思う。なんていうかこんな気の利かせ方をするなんて、こうゆう世界観の提示をするなんて、それだけでもちょっと圧倒されるものがある。ジャケットだけでも眺め見て楽しめてしまう。ジャケットという外側の箱、入れ物を使って表現できることの面白さにこんなにゾクッとさせられるなんて。早速パソコンに入れて、そのままヘッドホンで聞いた。なんかもう最近はヘッドホンで聞くのが楽しいみたいな感覚があって、っていうか自分のもってる再生機器がショボすぎるのがあるんだけれど、それで最初からなんも考えないレベルでヘッドホンで聞いた。驚いた。いくら言葉で説明されたものを読んでいても、そこからずっと遠くへ引き離される感覚。言葉でうまく言えない、言い換えられないところにある圧倒的な体感。それは未知のもの、日常のそこらへんすぐに手で触れているようなものじゃないもの。ちょっとすごすぎて興奮してしまう。これが、ついこないだ出た新譜としていま聞けるなんてという喜びさえある。こんな風に音楽で新しい感覚を、今まで知らなかった世界を知れるなんてということがこんな風に嬉しいんだということ。石原さんって、すごいコンセプチュアルな人なんだなと、まあ確かにオウガ のプロデュースで考えたってそりゃあそうだとわかってくる。ゆらゆら帝国をよく知らないからそこもちゃんと追えばもっとわかるのかもしれない。年齢的には山本さんとかと同世代なのかな、わかんないけど、まあその辺と思ってて良いのだろうか。すごいな。音楽の聞き方や捉え方がいやでも迫られる。すごいと思うんだが、このすごさはいかに言葉にされうるものなのか。

自分にとってこんなように興奮する音楽は大衆的にはならないというくらいのことはわかっている。自分のとても個人的なところにグッとくる音楽は大衆性を帯びず、多くないファンという人々の中でもそれはかなり個々人でくっきりと違うものになるんだろうというのが実感としてある。つくられてる音楽が個人的であればあるほど受け取る方もものすごく個人的なところで聞いて見ていると思うしそれが許されるから。どんな良い音楽にもたいがい個人的なことの普遍性があるとは思うけど、それとはまた全然別物なんだろうと思える。個人的なものの追求がより絞られてあるものの方がより聞き手の自由な身勝手さが許されるように思える。大衆に届く音楽の射程の広さとはそもそも違う。では大衆には届かないがそれぞれの多くない個人に届く音楽とは一体なんなのだろうな。その親密さは結ばれるというわけではなく、むしろその遠さ、距離をどう捉えたらいいのかという問いかけが強い。

ぼんやりと聞くことができない音楽、大人数が聞かない音楽、自分にとってよく聞くことが求められる音楽、自分は何を聞くか、ということが否応なく迫られる。まあその快感。陥落する愉悦。誰にも渡さない、渡せない。

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