f:id:qyu:20200426090608j:imagef:id:qyu:20200426090530j:imagef:id:qyu:20200426090526j:image

なんか家にいるのも慣れてくると慌ただしい日々とか一切関係なくとにかく1日はあっというまに過ぎていくことがわかってきた。ざっくりとでも午前はなにする、午後はなにする、という予定を考えていた方が良い気がする。とか思いながら全然やれてないわけだが。午前中洗濯物干して、バリバラなど録画しといた番組を消費しつつとにかく3月中に収録したものは全ていついつ収録しました、というテロップが入ることの示唆するものはどこまでなんだろうとか気になる。母から車で迎えにいくから実家に来なよというメールが来るが、断る。私が無症状なだけでうつす可能性に加えて埼玉で自宅で亡くなっていった人たちを思うと感染した場合に病院に入れないかもしれないリスクがやばいんじゃないか。そう思うといくら車で移動したとしても帰るのはしてはいけないと思う。そしてaちゃんのことについて話した。結構ずっとやりとりした。こないだ会った時にも話していたし。私が聞いていること全てを正確に伝えられるわけではないもどかしさはあるが、でもできる限りのことは書き記した。私は、私の中ではっきりしているのはaちゃんだけが我慢を強いられなきゃいけないなんてのは絶対間違っているし、おかしいと思うことだ。それだけは絶対に許せない。それはつまりコロナ禍における補償のない自粛要請と同じで、我慢をしてそれができなくなったら死ねといっているのと同じに受け取れる。人はみんな一般論を、正論のようなものを言うと思う。良かれと思って。でもその良かれは既存の体制や機能に寄りかかっている。それでは結局みんな同じじゃないか、結局女性が我慢を強いられるだけじゃないかと思う。そんなふうになること自体がおかしいと思う。それを当然のように支える背景、仕組みになっているのは男女の雇用の格差、賃金の格差、家父長制であり女性差別だと思う。でもそれはあくまでも私の考えにすぎないから、それを誰かに当てはめて言い渡すことはできないのだと思う。そう認識して判断して、そうしてしまったらそれと闘わなければ、抗わなければならなくなる。それを誰かに強要することはできない、簡単に勧めることもできないと私は思ってしまう。私が、自分がそれをできているわけでもないのにできるわけがない。でもだからって既存の通りに屈してしまうのでは報われないと思う。人が個人として生きていくのは難しいことなのか。aちゃんとも何度かメールのやり取りをして、振りきった極端な悪路は避ける方向に行けたのかもって感じで少し安心する。言葉でどれだけのものを伝えられるだろうかと思う。

冬物の衣服を少し片付けたりした。本を読んでたら眠くなってしまい、19時くらいから寝て起きたら23時だった。なんてあっという間の土曜日か。でもまあこれと言ってなにもないくらいでちょうどいい気がする。私は別に会いたい人に会えないというつらさとか、ないからなあって思う。そうゆつらさを共有できる人たちがいるんだなあと、へえええええと驚いちゃうけど、まあそうゆう人たちはいるんだろうと思う。もともと自炊してばかりの私は飲食店のテイクアウトをすることもない。そんな余裕が最初からないし、ある人にはあるんだなあと思って、なるほどなと思う。でも実際のところ同じ金額のお金を持ってったって、なにに使うかどう使うかなんて無数に違うのだろうな。私はなににお金を使っていたっけ?と、まじまじとカー独立の明細や家計簿を見返したりする。