1日家にいてなにをしたか思い出して記すというのはなかなか難しいことだな。特になにもないといえばなにもなくて、でも1日あったのでそれなりに何かを思ったりしているはずだ。それらを記しておきたい。

生活は踊るで今日のおたよりテーマが日記で、アナウンサーの堀井さんが自分の昔の日記や夫さんの子供の頃の日記を持参して朗読していた。でもなんかあれだな、やっぱり他人の日記を読むのと自身の日記を読むのでは全然違うことだよなあと思った。読む側も聴く側も。夫さんの小学6年生の頃の日記は笑っちゃうような面白さの気持ちがどうしても入りこむ。それは本人がその場にいないからかなりの他人事として笑うことができるという感じ。でも堀井さんのTBS入社前後くらいの日記だと本人が読んでいるからその感慨深さが共有されている感じでしみじみ聞く感じ。もちろん年齢の違いによる描かれている内容の違いが大きくはあるけれど、それでも。リスナーからは小中学生の頃からずっと書いているという強者がたくさんいてやっぱり書いてる人は書いてるんだなーと。日記というと交換日記という話がよく出てくるとは思うけど、でも交換日記ってやっぱひとりで書いてる日記とは根本的に違うものだよなあとは思う。

朝だったか昨晩だったか、NHKで見たニュースで小池都知事が現在営業しているパチンコ店はありませんと言った後になってやっぱり都内で数件営業している店があったらしく、そのお店に都職員が自粛要請に直接出向いてお願いをする、最終的に全てのお店は閉じたという話だっただろうか。ただ開けていたお店の人に話を聞くと、閉めろなどといった電話が多数あった、それで閉めざるを得ないと決めたといった話をしていた。それを見てすごくこわいと思った。都は自粛要請をしてそれに従わないから名前を公表すると言うが、実際に名前を公表する時点になってそれにおける効果ってどれほどのものなんだろうと思う。実際には公表をするぞ、と言う圧力をかけ始めた時点での効果なんじゃないのか。都がそのように自粛要請にも関わらず営業を続けてる店を悪と見なすというお墨付きが与えられることによって市民を扇動しているように受け取れる。私たちは歴史からなにも学べないのかと思うと落胆する。歴史から学ぶ、という行為自体かき消されてしまうのかもしれない。同じ過ちなんてないかのように、過去なんてなかったかのように、私たちはなにも知らなかったとでも言うんだろうか。自粛要請ってなんなんだよほんと。大変だ大変だというようなふるまい、声音で発言をするなら、だから家から出るな、協力を、一人ひとりが責任を持ってというのなら、自ら休業しているお店に対しての補償をなぜ出さないでいられるのか。それは明らかに矛盾しているのに。なんで平気であんなこと言ってられるんだろう。なんでそんなふうにただ求めていられるの?なんでこれが解決されないんだ。

朝は6時とかにいつも目が覚めてしまうが夜はまた早いうちに眠くなる。昼夜逆転とかほんと絶対しないところが我ながらよくできていると思う。家にずっといるこの生活、全然知らない感じのわけでもないのはなんでだろうと思っていたけど、そうか、大学出た後の数年はこんな感じだったんだもんなあと気づき、親しみを覚えた。そうだ、今日は花屋に行ったんだった。前に一度行ったもののなんだか怖気付いて買わなくて、でもどうやらやってるっぽいのかなあと思って散歩がてら行ってみた。あまりお客さんが入らないように、こそっとやってるようだったけどお客さんが続いていた。種類はそんななかったけどかわいいお花があってほくほくで帰宅した。けっこう咲いてしまっているものなどを数本おまけしてくれて、ええこんな立派なのいいんですかと恐縮するくらい。しかし駅のほうは相変わらず人出はこれまで通りって感じだったな。もはやほとんどすべての人がマスクをしている。マスクをしているという民族のようだ。マスクがもはや顔になっている。していれば、それだけで、人の奇異なものを見るかのような視線からは守られているのだと思う。あとなんか書くことがあった気がするけど思い出せない。

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