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家にひたすらいるだけなことに慣れ親しみすぎててそこから日記を書くことはなぜだか転がり落ちてしまうようだ。というわけで日記はせめて次の日には書こうと思っていたのにもう2日たってしまった。書こうと思っては忘れて他のことをしているのだ。

ネットフリックスでぜひ見たいと思っていたフランスのアニメーション「失くした体」を見た。確かゲンロンカフェで片渕監督が「この世界の片隅に」「手をなくした少女」とあわせてみんな手を失う物語なのだということを喋っていた。アヌシー映画祭でも受賞をしている。ヘッドフォンをして見はじめたのだが、冒頭10分くらい、音が生々しくこわすぎてこんなのまともに聞いてられない!と外してしまった。なにこれこんなにこわいの…?とびびってしまった。と同時に、すごく小説っぽいなあと思った。小説的な視線のはこびというか。見終えた後に原作は小説だと知った。でもそう感じたのは、源氏物語はすごく映像的なんだという話を最近聞いてるのが影響しているのか?と思ったりした。加えて、手といえばイジートルンカだよなあとか思ったりしたけど、いやとにかく見はじめはびっくりしてしょうがなかった。そうかこんな発想があるのか、これがあり得るんだ、アニメーションだからこそできる表現なんだ、ということにとても驚いた。圧倒された。気になったのは人物の動きの描写で、いくらかコマ数が少ないのか動きが決して滑らかではないような?というのを感じたところだけど、あれは回線の遅れ?そんなことあるか?と思うが。木工所のような場所で粉塵が舞っているシーンがすごくいい。人と人とのつながりは接続したと思ったら思いがけず断絶する。それは言葉で説明しようとするとややこしくて、でもそこで何か決定的に踏み間違えてしまうのだと思う。正しさとは、好意とは、伝えるとは。男と女の、生きてきた違いでもあるように感じた。彼女の拒絶反応の内容を彼は理解できるだろうか。驚かせたい、喜ばせたい、その先には分かり合える喜びがあると思ったのだろうその気持ちはすごくよくわかるのに、ああでもきっと彼女は喜んだりしない、と想像してしまい、悲しくなった。物語を貫きとおす象徴としてのハエの存在感が効いている。手なのに手から見た視点というのがあっておもしろい。眼という器官だけが何かを見ることができるというのではないのだ。

海外のすぐれたアニメーション作品を見たときって、不思議と、ああ海外にはこんなものを作る人たちがいるんだということを他のどの表現よりも妙に具体的に肉感的に感じている自分がいる。なぜだろう。自分にとってはアニメーションがいちばん直接的な、ひとの、触れられた表現なんだという感じを受けるようだ。特にアニメーションでは制作者の個人の強さを感じる気がする。それは生身の人間が出てくる映画の監督という立場の人に感じるものとは全く違う。よりもっと個人的なものとして感じている。おもしろいなー。

微妙だった夕飯。春雨のでんぷんが出過ぎた。

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