食欲増進期なので11時過ぎくらいにすでにおなかがすき、はやめの昼ごはんをとってから出かける。納豆梅ご飯とみそ汁。新しく開館したアーティゾン美術館で鴻池朋子さんの「ちゅうがえり」を見る。2年前くらいに秋田でやってた展示見たいなーと思っていたから大規模個展で見れるのはうれしい。多分その前に鴻池さんの本を読んだりしていた。大きなパワーのある人だ。3年前くらいにギャラリーで見たときに毛皮の部分の毛をくり抜いて刺しゅうがしてあった作品も、確かこんなんだったかもっていう作品もあった。その時は床に置かれていたと思うけど、今回は木枠に張られるというか宙吊りのようにされていた。何かの動物の皮らしきものを編んで巨大な一つの下地にして描いている作品は皮を編むという作業がK先生の以前の仕事を思い出すのだった。会場内にはいくつかテキストが掲示されていて、それらは多分秋田の展示の頃に出してる本などからの引用らしかった。テーブルランナーの制作における鴻池さんの絵というのがすんごくかわいらしくて一枚の絵の中で物語れる濃厚さは前に見ていたと思うけど、今回は絵本になっているらしい原画も展示されていて、決して絵本の原画として扱われているというわけでもないけど、それらの展示がよかった。その近辺に置かれた、近くにあったテキストを参照するならば「見るひと」の象徴のような顔の造形物には特に惹かれた。展示の中で一番好きだった。顔は2つあって(湖の地底みたいなやつはなんか違う気がした)、特に綿毛を使った作品がやばくて綿毛という素材がこんな風に選択され表現に用いられるということに言葉が出なくなる。それは春先に自分がガーベラの綿毛集めにハマっていたからなんだと思うけど。使われている量はそれなりにたくさんだと思う。あんなにふんわり、たくさん、どこでどんな風に集めたんだろう。素材の話もまた違うテキストで書かれていたような。動物の皮の話かな。2つとも制作年は今年になっている。新しい作品なんだ、と思うとわくわくする。すごろくを模したような、でも何か違うような大きな一枚の紙の作品はまさにちゅうがえりをイメージする。鴻池さんの頭の中をのぞき込むかのような、考えていることを想像することがこちらに許され委ねられているようなものを感じる。そのあたりにあった版画作品も良いよな、いやほんとどんだけ作ってるんだ、と思う。下の階ではヴェネチアビエンナーレの帰国展をやっていた。テキストの文字が小さすぎて読むのがつらい。資料展示からの部屋の再現という流れが思ったより良いという快感があった。石倉さんの神話創作は鴻池さんの仕事とつながるからまたおもしろい。でもなんかフラットな展示室で見るよりもっとデコボコゴツゴツとしたような空間で見る方がおもしろさがありそうだなと思う。さらにその下でコレクション展示、しかし羽織りものを持っていても冷えてしまって足早に去る。外に出ると風が強かった。暑いまま。東京駅までの地下街にあるスタバで休憩。本を読んで結構時間をつぶし、それから仙川へ移動。早めの夜ご飯を食べようと思い調べておいたカフェへ。喫茶店という方が雰囲気的にはそうなような、ジャズをレコードで流し、いくつもの小さなランプや本棚がぎゅうぎゅうに壁面を占め、ミシェル・ゴンドリームードインディゴのポスターが貼られていて、穴蔵みたいな店内、でも喫茶店というよりはカフェで成立している感じ。ミートソーススパゲッティとアイスコーヒーを頼む。アイスコーヒーがすっきりしていてとても美味しかった。どう考えても美味しかった。きれいだったな。ミートソースもひき肉のごろごろ感が私の好きなやつだ。良いお店だった。19時半近くになってお店を出てまた違うカフェへ。タイニー カフェでY本S一さんのライブを見る。公式のスケジュールに出てないしお店でも張り紙してなかったからシークレットなのかどうなのかよくわからないが。kさんとは年末ぶりに会った。15席限定でいつもどおり若い客層が多い。ライブを見るのは今年2回目だ。山本さんは配信で何度も見てるから久しぶりに見るという感じはうすい。へんなの。こないだドミューンでやったのと同じ内容でやりますとのこと。50分くらいでやるつもりだったというが実際は80分くらいやってた。ドミューンの時に全部よく見てたわけではないが、新譜から4曲くらい切れ目なくやったようだ。新譜も今日買ったからあれだけど、この内容の感じって去年まではやってなかったものだよなあと思うと今年作ったものなんだろうと思えるし、リリース自体はコロナがあったからということなのかどうかが気になる。去年もそんなに見てるわけではないが、こんな風な音作りはやっていなかったと思う。悪くない意味でざっくり言えばいつもと同じだと思うのだけどでも違うと理解する。何で違うと判断しているのだろうな?トラックの作られ方とかかな。時々すごく良いんだよな。そして時々音量音圧上げてすごい低音を出してくるから床からもすごい振動だしライブ見るの久々な身にはなかなかのものがあった。やっぱり山本さんのなかにあるものは、きれいになにか一つに回収されえない。踏みはずして、壊してしまう、と私には取れるとしても本人にとってはどうなのかわからない。常に決壊しているような人だ。まあしかしすごく良かったことは確かだ。これで終わりなのかと思ったら2部もあった。2部はブルースハープだった。あ、それはドミューンの時と同じだ。それで終わりかと思っておわらないのがいつものことだが今日のギターはひょうたん形のもので(いつもこれの種類の名前が覚えられない)そんなん持ってるの初めて見るけど、借り物なのか?と思ったら昭和20年くらいのもので(西暦で50年代)88000円とかで買ったらしい?昭和で考えてそれをすぐに西暦に言い換えられるのが、私にはない能力だなと思う。Kというメーカーのよう。いい音しますねとしきりに言っていたが、私にはそこまでよくわからず、なんかブルースとかやったらあうのかな?と思った。そしたらブルースっぽい(私が思うブルースっぽい感じ)演奏をしてもちろんそこからぐにゃぐにゃに変化していった。ソロでもつくづく思われるがやっぱり私は長尺の延々と繰り返される運動と変化が好きだ。山本さんのソロ仕事ではインストの方が好き、多分アコギインストの方がより好きだけど、その時間というものは一体何なのかが気にかかる。演奏を終えて今年はあと3枚くらいリリースがある、時間あるから嬉しくなっちゃってとかって話の流れから、人の不幸がうれしい、人の不幸を見るのってなんでこんなに楽しいのか、そうゆう人間なんでみたいなこと言ってたからそうゆうこと言う山本さんは人としてほんとクソだなと思う。この発言には真実味もあれば、出まかせというか皮肉というかつい口が言ってしまう口癖みたいなもの、いろいろと推測してとることはできる。でも私は、自分の仕事が、会社がもうずっと苦しい状態でいるから、そうゆう人もいるんだってことを無視して自分の快楽だけ優先するような発言をするのはどうかと思う。ここの店長さんだって大変なのわかってるくせに、このお店を助けてあげてくださいとかって発言もしてるしもちろんわかっててそれでいて山本さんの中にはそうゆうドーパミン的作用もあるだろうことはわからないでもない、もちろん山本さんだってお店のこととか周囲のこととか十分当事者としてわかってるんだろう、けど、でもそうゆうことを平気でいうのはクソだ。私は笑えない。けど私は笑われるのか?と思うとすごく嫌な気持ちになる。むう、と思いながら帰宅。そういえば帰りが遅くなるとわかっている時は、スカートをはかない、靴はスニーカーかフラットな靴を選ぶようにしているんだったと気づく。そこは葛藤がある。着たいものを着たいという気持ちと、でも暗がりの中でも格好で女だとわかりやすい服装をしていることの危機、何かあった時にすぐに逃げられるようにする警戒を、するか、しないか、という選択を、どうしようかと悩まされるのだった。女だと認識されるだけで危険度は増す、女という弱さに付け込まれるのが嫌だ。女であるという理由だけで、ひったくりに合うかもしれない、車に連れ込まれるかもしれない、そのほかいくらでも。自分は被害にあわない、あいたくない、という気持ちとともに何があるかわからないというおそれがある。女っている必要あるのか?と思えてくる。男のためにいるわけではない。男の「もの」になるためにいるわけではない。男の承認のためにいるわけでもない。まるで男に危害を加えさせないために私の服装が規律されているのはやさしさか?なにか?

 

 

自分の存在の虚しさをどう引き受ければ良いんだろう。それがずっとわからないでいる。死ぬこともできないなら生きることでそれをどう扱えるのだろうか。ただ生きることがむなぐるしいだけでいる、それを許せないでいる、許せなさだけが自分を縛りつけている。なんなんだろう、どうしたらいいんだろうと思ったときに浮かび上がるのは20代の頃のことだ。大学を出たあとの数年のこと。その期間をはっきりと口にすることさえおそろしくって、特定することをも避けている。それでも漠然とその頃のことが思い出されると、背後から自分の表面を一気に侵食されるかのようにして涙が出そうになる。自分をけなし続けた毎日のことが、今でも自分の足かせになっている。それはもうずっとわかってる。わかってるからそれから脱却しなくちゃって思ってる。できるって思ってた。でもそれは全然できないのだった。自分を自分でおとしめ続けた結果は、こんなにもひどいのだ。そのことに落胆する。落胆することはできても、それを払拭することはできない。自分はずっとこの先もそれらにとらわれ続けるのだろうか。ひきずればひきずるほど、きっと悪くなる、今なってる。そのことがこわいと思う。「ハニーボーイ」はそういえばPTSDに向き合うことになって出来た映画だった。そうか、私にとってもトラウマなのかもしれないと思うとすこし納得がいく。これはACと同じように自分で納得がいくならそれでいいというレベルで。私はもう無知だった若かりし頃にも戻れず、もう、もぬけの殻の自分でしかありえない、ようだ。中身のようなものがない。それはもう以前にズタズタに殺したみたいだ。何度でも殺した、殺したかった。あの頃の感情をどうしてまるで覚えているみたいにわかるんだろう。どうして忘れていないんだ。腐臭がするみたいだ。