歳をとっていくにつれて、どんどん偏屈で卑屈で硬い殻に閉じこもっていくものになっていっている気がする。そうなっていくと感じれば感じるほどみじめな気持ちになる。また、というような既視感はなんだろうか、なぜだろうか。自分の本音は隠したいという時もあれば、本音をさらしたいというときもあるだろう。隠すことは、なんだろう。自分がどんどん狭く小さくなっていく。それが自分には適切ということなのかもしれない。けれどその景色にしめあげられるようにして苦しいのはなぜ。クーラーをつけないで、どれくらいまでいられるのだろうかと試したくなる。いつも試している。なにかは平気であることを示したくて。みんなが嫌がるものだって私は平気だからと言いたくて?体はどこまでいけるのか、知らんぷりをしてどこかへ委ねたくて。私のものなんかじゃない、知らない。自分の体に、死ねるもんなら死んでみろと吐いているようだ。私は死にたい人間でなければならない、ということはもうあまりに意識化されてしまっているんだろう。私はそれから逃れられない。きれいなことは私には語れない。〜してはいけない、は、ただそのままの〜ない、になった。だからいつも自分の本来思っていることと正反対のことを言っているという剥離のふるえがあるのだ。正反対のことを言うという虚偽に、気づかれたい。要は気づかれたいのが目的だが、それはいつもくじかれる。達成されず、悲しく絶望してしまう。嘘を言っているのに、気づいてくれない。私は嘘をつかない人になりたいが、なれそうにもない。嘘はもうただ事実でしかない