何もないのに泣かずにいられない。何もないから泣くのだと思う。泣くことしか残されていないみたいで、泣くことしかできない。こんな症状はおかしいと思う。おいおい、と思う。しかしコントロールができない。はじめてのことじゃない。だから余計に不安だ。おかしくなりそうだと思う。それは良くないと思う。おかしさからどうにか足を洗わねばならないと思う。BS1で海外のドキュメンタリーなどを見過ぎてるのがよくないんじゃないかと思えてくる。いや多分それはなんか全然関係ないな。コロナ禍のレバノンのシリア難民の人々の臓器売買、子供の誘拐、売春、女性と子供たちの姿がつらかった。昨日のETV特集でサヘラ・ローズのことについて、はじめてその出自を知った。戦争で、そうゆうことが起こり得るのかと、初めて知って驚いてしまった。一番印象的だったのは、彼女が、どれだけ周りの人に支えられているとわかっても、自分の中の自分にある埋められなさ、みたいなものについて喋っているところだった。彼女はその自分の中の自分というものの存在についてはっきりわかっているのだろう。それは外側の自分とは違うというか、剥離したというか、埋まらない穴そのものとしての存在感に、それは誰しにもあるものだとも思うけど、それにどれほど苦しむかは人それぞれ違うんだろう。自分の中の自分、といったイメージを思い浮かべた時に思い出すのは、いつも思い出してしまってるのはプラネテスで、アニメで見ていた時のあの衝撃で、あのハチマキみたいなことは自分にはできないと思う。けれど憧れているのかもしれない。すくなくとも映像作品で初見ですごく衝撃を受けてしまったものは、もう一度見たいと思えない。ただただその初見の時の衝撃として反芻していたい。もう一度見たいと思いながら、見ない。見る時のその状況はその時にしかないものだから、今見たら、当然同じものはない。そのことにがっかりしたりするなんて、滑稽なようで。テレビを通して人が孤独であることにほっとしてしまうのだった。それは単に自分がそう思いたいように思っているに過ぎない。いや本当は実際は誰もが孤独かどうかなんてどうでもよくて、表層的な孤独じゃなさがほしいに過ぎないだろうと思うんだけれど、私が慰められるのは孤独であるらしいことについてでしかない。私は子どもの頃から親にほめてもらうということが苦手で、ほめられるということに対して疑りが出てしまうが、反対に怒られ、嫌われることには慣れてしまって、なぜかいつもそっちにばかりころんでいたと思う。自分の思っていることや言いたいことをそのまま素直にいうことができず、思っているのとは逆のことを言ってしまう。それはどこか試している行為のようだ。私はいつも、ずっと、私のその嘘を嘘だと見破ってほしかった。私が言うことなんか信じられるわけがないと期待して、しかし予想に反して私の発言はそのままに受け取られてしまう。そして私は自分が言ったことを信じられてしまって、そうじゃないそうじゃない、なんで本当の気持ちをわかってくれないんだとヒステリーを起こすのだった。それでも口が裂けても本当に思っていること、思ってもないことを言っているんだという事は言えなかった。本当は自分が嘘を言っているんだっていうことを、いつも気づいて欲しかった。気付いてほしい一心で嘘をついているのに、なんにも気付いてくれない、わかってくれない。それが私の言い分。言ったことをそのまま信じるなんて、愚かだ。そう責め立てたいくらいに、私が言い放った嘘は私が発言する私になった。いくつ重ねても見ぬかれない嘘で、つけばつくほど私はそうゆう発言をする私になっていった。だから今でも本当に思っていることを言えないのだと、なぜか急に気がついた。なぜいえないのだろう?ってずっと苦しんでいたと思うと、しかたなかったんだと思う。自分が嘘ばかりついているのはなんなんだろうとも思っていた。嘘でしか自分をつくれなかったのだなあと思う。本当の気持ちをわかってもらいたくて、言わずともわかってもらいたくて、私はずっと期待しているんだ。それがいかに叶うはずがないとわかっていても、いまだにそうなんだ、「本当の私」に気づいてくれることを期待しているんだと思うと、声が出ない。もう出す声もない。違う、もうずっと前からそうだった、私はもうなにも喋っていなかった。でも結局同じ。言いたいことはなにも言えないだけ。自分がなにもない人になっていく、なに考えてるんだかわからない人になっていく、そんな自分の像が怖いんだ。自分が許されたいんだと気付いた時、誰に許されたいって、それは母だった。でも今は違う。私を許さないのは私だった。私が許さない。死にたいと口に出すくらいなら、いつだって死を受け入れる覚悟でいなくてはいけないと迫っているのは私だ。発言することには中身がともなっていけない、発言するくらいなら筋が通ってないといけない、嘘偽りがあってはいけないと。私はただ死にたいと言いたいだけなのに、私がそれを許さないのだ。私が許してくれない。

 

 

いまdownyの1stで猿の手柄とか聞くと音がすごくうすぺらく単調に聞こえる、ということはおもしろい。これを聞きながら、自分の頭の中では近年のライブで聞いた音を想像し再現している。聞いた音を覚えているなんて、嘘みたいじゃないか。まあでも曲が、バンドが持ってる像はおんなじで、そのブレなさはすごいな。モーサムもそうだったけど、downyとか54−71とかって当時の私にとっては結構率直に怖い音楽でもあった。ただその怖さは私にとってはじめてのものだった。怖さが魅力になっていたのだろう。わからなさをわからなさとも理解せずに言葉にせずにすんでいた。まるでなにもない景色、まっさらなスクリーンがあった?

昨日久しぶりに安吾の白痴を読んだ。終戦記念日だから、戦争っていったら、安吾が読みたくなるというか、安吾しか知らなかった。安吾を読むと、その文体にかっこいーと思わずにいられなくて、10代で受けた影響力の大きさを感じる。10代の頃に読んで、なにがわかったというわけでもなかっただろう。でも今読んでもあこがれてしまうな。わりと率直にあこがれているんだと今になってよくわかってしまうのは恥ずかしさもある。