木曜日に、やっぱりどうしても気になるなと思ってもう一度「ハニーボーイ」を見に行った。なにが気になるのか言葉にできなかったけど、だから気になるわけで、もう一度よく見る必要がある気がした。脚本を書いてるシャイア・ラブーフは同い年なんだということだけはウィキで見て知ったうえで。なにが気になるんだろうとずっとそわそわ何かを探すみたいにして見ていた。改めて、シャイアの少年期を演じたノア・ジュープ、青年期を演じたルーカス・ヘッジズ、そして自らの父親の役を演じたシャイアの3人の役者の橋渡しのようなつながりがとてもうまくできていると感じた。はたして、私はこのうちの誰に特に感情移入をしているのだ?と疑問に思う。どんなにひどい親であってもその親に愛されること、それだけが欲しいのにそれが満たされない悲痛な残酷さがしかし含みうる期待や希望や喜び。それはでもいつも次の瞬間裏切られる。そのまま大人になったとき、その欠落は埋められないままねじれて見えない穴になっている。その姿に自分を重ねることもできる。でも、私はやっぱりずっとシャイアの演技に、そのふるまい、ひどい言動に惹かれて目が離せない。なぜだ?と思う。父親の古くさい男らしさの押しつけや不躾で身勝手で横柄な態度、口うるさく誰彼かまわずわめきちらし自分の主張ばかりを自分の子供にさえ高圧的にふりかざす。ビッグブラザー制度のいかにも親切な人にさえ、だからこそと言わんばかりに差別発言を厭わない。救いようがないのに、少年にとって父親という唯一の守り守られたい人。12歳の少年が父親の前では必死に大人であろうとして、それでいて一生懸命に子供を生きている。そんな子供の思いなんてまるでまるで知ったこっちゃない、見つけることなんてできない父親は、どうしたって救いようがない。でも私はその父親に私自身を重ね見るような気になっているのだと気づいた。おかしな話だ。私は親になったことなんてない。もちうる関係性で言えば母と娘の娘の方だ。なのに、私は父親の身勝手で乱暴なふるまいにこそなにかあたたかな血の流れるものを感じていた、それは知らない人ではなく、だから目が離せなかったのではないか。シャイアがPTSDと診断された後の治療の一環で子供時代のことを振り返った実際が元になっていることを考えると、よく自分の父親の役なんてのを演じられたものだと思う。ちょっとすごすぎてわけがわからない。でもその同い年ということだけを接点としてたぐるならば、シャイアが演じた父親という人を同い年の私が私として見出すのはぎりぎりおかしくないような気もしないかもわからないのかどうかどうなんだろうか…。そこはイコールになりようがないものか?ないよなあと思うんだけど、でもなにかがなにかを介して伝播するみたいになってなりえてしまうようなものの気がする。シャイアの演技が、服装やヘアメイク含めてあまりに巧妙によくできている気がしてしまって、まずそこに衝撃があるのだけど、すごく嫌な感じをぷんぷんとにおわせながらもその男の内にある空虚さ、満たされなさがまるで透けているようにもある。何をしたって言ったって、結局その男が満足できることはない。自助会に通って人の話を馬鹿にしたり、そこで聞いた人の話を自分のことのように話したり、子供の稼いだ金で食っていることへのみじめさを露呈したり、撮影現場で自動労働法を叫んでさも正当性を主張したり、その必死さは痛々しく誰も寄せつけない。子供だけがでもその父親を必要としている。共依存みたいだな。そうゆうものか。シャイアが演じることができる父親の姿は、シャイアにとって憎むべきものであり愛すべきものだっただろうか?やっぱりこんがらがってよくわからん。よく言えない。とりあえず見終えてこんなふうに自分の幼少期に、父親に向かい合えたシャイアすごすぎと思って自分はいまだにどんだけなにもできてないんだと思いいたりものすごく落ち込み暗くなって落ち込んだ。でも帰宅してとりあえずアルマ・ハレル監督のインタビューとか読みまくった。監督がピノキオをイメージしていたんだという話がまた衝撃的だった。ぎゃふんとなる。

http://www.webdice.jp/dice/detail/5965/

もっかい見たいくらいだ。でも何度見てもわからない気がする。でも私の、子どもの頃から現在にいたるまでの私というひとのぶっきらぼうで排他的でひとりよがりな人格はあの父親にがっぷり重ね合わせ見ることができる、そのことが、重ね合わすには破綻しうるはずながらでもそれが成立してしまうことのまっとうさがあるはずなのだと思う。何を言っているんだ?って感じだが。これはもともとシャイアの極めて個人的な話なのだと思うと、なんとなく落下の王国を思い出した。あれは劇中劇として、その場の創作として少女に語り聞かせるためのそれでいて語り手の極めて個人的な物語であるとするとやはり極めて個人的な語りにこそ見る側は行き来可能な通路を見つけ出すのだろうと思う。そういえばmixiの自分のアイコン設定がフォコンの裸の少年の写真になってることにハッとして気づいて、うわっと思った。大学生の頃のままそのままだったわけだが、人の日記を読むためにログインしているだけで自分のページの操作は全くしないからふだん全然目に入ってないのだった。しかしそれを見て私はやっぱり少年になりたかったんだろうな?と思うけどそれがどうゆうことなのかはやはりよくわからない。でもだからってトーマの心臓読んでもこれじゃない感。もっとあっからかんとした、なにものでもないみたいな自由な少年の身体や跳躍に自分を重ねたかったんだろう気はする。つまり女の身体はいやだったんじゃないかなって気はする。女という容れ物、殻はいやだったろうなとは思う。そりゃ嫌でしょ?ってことだよなあ。毎日ポテチとアイスで腹を満たして泣いている。私はいつどうやって死を選ぶのか?と思う。生きてることを選んでいる自分は、鏡に写ったそれを見ても誰だかわからない。洋楽歌ものを少しは聞くようになってわかったけど洋楽歌ものでも自分が特に好むのは明らかに暗い曲だった。明るい曲にはなぐさめられないからな、無理なんだよな。それはもうどうしようもないから嫌でもなんでもない。歌ものじゃない場合そうゆうのから解放されるから良い。