また書いてない。書くのは怖いしめんどくさい。自分のなかのほとんどはめんどくさい。日記書くと、結局自分のいやらしいところばっかりになる。じめじめっとしたこれまで何度となく繰り返し書いてきたような同じことを書いて、自分に嘆きながら自分を可愛がっている。もしくは書いている満足感や優越感みたいなもの、あれはなんだろうな、ダサさがあってそのことに気づきながら気づいてないフリ、要はフリがすごいのだ。それがおえおえと気持ちわるいことになる。相変わらずこうやって自分を貶めたい。自分は最低最悪な人間ですと言わずにはいられない。ただのままではいられない、それはつらい、結局楽になりたい。先週のジャズトゥナイト、そう言えば佐藤允彦さんがゲストだったのに聞いてなかったとツイッター眺めてたら気がついて今晩で聞き逃し終わってしまうと思って今聞き始めた。

昨日母とルミネのエスカレーター降りてるところでまたみずほ証券の話されて、また私が言ってたことと全然違うこと言ってるから、もうこれ正すの何回目?と思ったらいやんなっちゃって、もういい加減にしてよという苛立ちがひどく嫌なわざとらしい抑揚をつけた物言いを私にさせた。声量自体は出していないつもりで、けれど臆面もなく家でもない明るい電気のついた知らない人々が行き交うような場所でもお構いもなくこんないやーな言い方を母親にしてしまえる自分に次の瞬間気づいてしまい、ハッとした驚きと、恥じらいよりもそれよりはそれでも自分のこの感情表出は当然なんだからという気持ちだった。でもそこで母がひるんだ。私の言動に自分の非を認めたみたいに。昔だったら母ももっと言い返してきていたと思う。母がなぜそうしなくなったのか、私の方で想像しうる可能性もいくつかあるけど真意はわからない。母は「あら、そう」といった素っ気なさそうな態度で私に背を向けて次のエスカレーターを降りていった。私はその後ろ姿につづいた。その後ろ姿を視界に入れながら私は一気に嫌な気持ちになっていた。あんなに嫌な物言いをわざわざした自分、自分の怒りの表明をことさら強調し、非難して見せた自分が急激に愚かしく感じられた。だから嫌なんだと思った。だから母が嫌いだ。母以外の人に果たしてあれほどの態度を出せるだろうか。(出せるかも)母は歳をとってきて物覚えが悪くなってきているから、それは老化していく中で当然のことできっと本人もそれを自覚して苦々しく思っているであろうこともわかるのに、それでも私が何度も話したことを(3回くらい)相変わらず覚えていないということに私は裏切りを感じてしまうのだ。まあそれは誰に対してもそうかもしれない。自分がした話を覚えてもらえていないと時にはヒュッとした切るような風が吹くものだ。それでいて自分は同じ人に同じ話を繰り返しした時相手は前にも聞いた話だと気づかれているんだけど。でもやっぱり母に対しては、繋がりの強い相手にはその裏切りをキツくキツく問い詰めたくなってしまう。問い詰めていいと思っているのだ。私の話なんて聞いていないんだ、という切り裂きに、血がドバドバ出てしまう痛みに声を上げずにいられなくなる。異常じゃないか?と思う。そしてこれは母と祖母の関係の写しじゃないか、と気づかずにいられない。母と祖母、母と娘の私、という関係がほぼコピーになっているのは随分前から気付く機会があった。それは様々な場面であった。母もまた同じように祖母に対して抑えきれない怒りをあらわにし、祖母はその内なにも言い返さないようになり口のそとに出されなかった言葉は逆流し、その言葉たちでやや膨らんだような体をぎゅっとふんばって押さえ込んでいるように見えた。おんなじだおんなじだ。ああおそろしい。ああいやだ。どんなに嫌だと思っても逃れられないものがある。それはもう私に染みこんでしまっている。染みこむというか、それはどんな手段を持ってしてもえぐりとれやしないだろうというような。

生理前だからかどうだかわからないけど気分が沈んでしまう。何もかも意欲的にはなれない。明るくもない。健全な明るいハリのある人格を形成できなくて友達からのラインも返せない。口を開けばあれもいやこれもいやしか言えない。あれもこれもどれもが悪い。だから私は憂うつだと説明しなくちゃいけないのか?自分のなんもかんもが嫌、という態度でずっと生きてるからきっとずっとこのままなんだなということに甘えている。生きたいわけじゃないからなあというところがまた救う。自分んはどんな理想の高みを見ているんだ、と思うんだけどそのチクチクした精神がやめられないんだろうなと思う。