よくよく考えたらやっぱり私はおかしいんだろうなと思う。感じとり方に歪んでいるところがある。わかっているが、それを変えられるわけではない。私は自分を正当に評価することをしない。それは明らかに評価をすることを避けていると言えると思うけど、そうすることで自分を成立させているゆえ、急にそれ以外の方法を取ることはできない。いくらAさんが私を褒めるようなことを言ったところで私はそれを信じてはいけない。私はそれを真に受けてはならず、嘘だ、と疑らなくてはいけない。そう信じ実践しているが、それは無意識にやっていることだ。というか無意識に支えられ強制的にそうやっているという感じだけど。相手が誰であれ、それが私の基本的土台だ。だから人を信用できない、だから恋愛とか結婚は自分には無理だろうと考えるにいたっている。厳しいなあと思う。そしていかに相手が嘘を言ったかと確かめないといけないのだろう。口だけでならなんとでも言える。私はそれにころっといい気分になったりしてはいけないし、疑るからにはその証拠を掴まなくてはいけない。こんなふうにして書いていくとヤバいやつだ。だが私の内心の動きだろう。結局私がいなくたってAさんはなんだって一人でやってのける。製作でも現場でも、私なんて必要じゃない。それなのにあたかも私が必要だと言うのは私にとっては嘘にしか写らない。いつも内心ではそう思いながら、そんなことを言っては悪いんだろうと思って口にしない。言いたいなら言えばいい。それを言うなと言ったって、言うのは向こうの自由だ。私が勝手に疑り、信じないだけだ。各々が好きなことを思っていればいい。けれど、嘘だと突きつけられればられるほど辛くなってしまう。やっぱり、ああやっぱりと確認作業が度重なってくると、わかっていたことのはずなのに私は辛さを増やしていく。私は私を傷つけないといけないのだとわかる。許す、と言うことに気づいたのはもう10年以上前になるけど、でもたとえ気持ちの上で許せたとしても、それでもまた傷つけずにはいられない、やめられないのだろう。やめられたら、なんて、あり得ないだろう。できることなら自分の頭をかち割りたいし、体を切り裂きたい。痛めつけて、文字通り傷つけたいというそんなイメージはけれど夢想的すぎる。親が喧嘩してるのを見ては自分が悪いのだと思っていた。子供の頃からのそんな習性が尾を引きずっているのだろうか。親が怒っているのは、怒鳴り散らしているのは私が悪いから。実際に悪いからよく怒鳴られていたんだろう。夜に外に放り出されいた。私が悪い。悪いとはなんだ?なぜ私は悪いのだろう。いつもどうして私は悪いのだろう。ずっとずっとそう問いかけてる。誰も教えてくれないから、わからないまま。私は自分の悪さを結局自覚していないんだ。できないんだ。その愚かさのなかで、ずっと足が。