なんかそう言えば水曜の日記に結局重要なとこ書いてなかったけど、すこんと抜け落ちてしまったけど、「ふたり」のふるまいはそれはいかにもホモソーシャルだったんだよなあ。ふたりはふたりでわかってる俺らとして結託して誰かや誰かを簡単に侮辱していた。私はその精神が理解できなかった。そんな簡単に人のことをけなす言葉を口に出すことはできないし、する必要も感じていなかった。そうゆうのを、ふたりはわざわざ口に出して共鳴させて批判する立場として私たちを見下していただろう。イライラして、ムカムカしていた私は当時は本当に何もわかっていなかった。理解ができない、としか受け止められなかった。ああ私ってふたりのこと嫌いだったんじゃん、と思わないこともない。今なら完全に嫌いだよなあ。ってかこないだあんだけドン引きして残念な気持ちになって幻滅したとまで思ったのは、いやだった、という感情だよなあ。自分たちはいかにもアートやってますみたいな選民態度でいながらも、それはそれでああなるほどね男性優位でそりゃあ生きてられるよねと皮肉りたくもなる。O先生の話をsくんがし始めたとき、流石にもう黙っていられなくてO先生がどっかで書いてたとかいう文章をふたりがエモいだなんだと言ってるからばっかみたいと思って「ただかっこつけてるだけじゃん」と言ってしまった。それはそれで私の中のO先生への正直な気持ちであり、恨み節なのかもしれないが。そうやって男同士で褒めあい称えあい大した中身のない発言をさもすごいすごい言って持ちあげて何をわかった気になっているのか、いつまで同じエピソード語っているのか、永遠に同じぬくい輪の中ぐるぐるぐるぐる、そんなんをすぐそばで見させられてきた私の気持ちはもううんざりうんざりいい加減にしてくれよってことなのだ。男が揃うとこうなのか、ふたりがふたりでいるとはこうなのか、そうなったら全部棚にあげて許してしまうのか。そうやって調子良く状況や場面で使い分けてるだけなんだなと思う。なんか、なんかな、やっぱり理解できないんだよな。なんでわざわざそんな態度とるのかって。競ってるみたいだけど、それはどうも実質が伴っていなくてばかげてるように見えてしまうのだ。いかにもそれっぽい雰囲気はあるが、私にはどうやら関係がないのだから、もういいや、いいんだ、ということは35になったからわかった。

 

夜中から生理痛で腹痛いな痛いなと思いながら寝てたけど目覚ましで起きたらやっぱり痛い。とりあえず起き上がってカーテンを開けたもののホットカーペットつけてその上で丸まって寝ていた。こりゃダメだと思って遅れていくとメールしたら休んでもいいですよと来た。そうか、それなら休もうかなと思う。昨日から食欲もないし、食欲ないから食べないけど食べないから体力もない、会社までこんなんで行ってもいいことなんてないだろう。そう考えられたら休める。洋服の刺しゅうの手直ししながらようやく「37セカンズ」見て、思ってた以上に良かった。その後「狐狼の血」を見た。やっぱヤクザと刑事ものというのが好きな自分がいるのは確かだろう。なんで好きなんだろう。面白いからなあ。でも「新しき世界」がやっぱりダントツで好きかな。日本と韓国じゃあやっぱりなんか表現が違うなって感じがある、そう感じるのはただの気のせいかどうか。日本の方がなんか生々しすぎて、韓国の方がもっとカラッとしてる。どっちがより酷いとかいうことではない。石橋蓮司の死に方がかっこいい。もらってきたおばあちゃんの服を分解しておく。アイロンがけする。ウエストがゆるいパンツのフックを付け加える。なんでもないことをする。プロフェッショナルで庵野秀明を見る。ものづくりしてる人だよなあという発言の数々。最後に、これでしか役に立てないから、みたいなこと言ってたけどそうゆう風にいう人はいる、それは人々から強く求められている人だからこそだ言えることだよなあと思う。シンジしかり。宮崎駿の言ってることはなんか自分に都合のいいように言ってる感じがしてどうかと思う。アニメは特に個人のエゴの塊だから、とかって言ってたけどそう思った理由について聞かれて内緒と答えてたのが気になってしまう。