もうしばらくここ数年facebookにはログインしていない、というか、すっかりログインできなくなってしまっているのだが、本当はどうにかログインしたいのだが(一体最後どのような状態にしてあるのかさえわからないから)、パスワードがわからず、ログインアドレスに設定していた携帯電話のアドレスを変えてしまったことによってパスワードがわからない場合の受信もできなくなってしまって故にログインができない、多分もうずっとできないのかどうか。でもはてなの簡易アクセス解析見るとどうやらfacebookのアドレスから飛んできてる人がいるようだ。え、貼ってあったのかな、って感じなのだが。最後にログインしたときのうっすらとした記憶では大概の投稿記事を削除するか見れないようにしたかどうにかした気はするんだけど、もうずいぶん前過ぎて思い出せることが少ない。パスワードを変えた時もヤケクソみたいな、facebookに完全に飽きてた時だったからだから普段なら設定しないはじめてのパスワードを設定したのだと思う。誰に見られてるかわからない恥ずかしさとと同時に、まあどうでもいいやという投げやりとが同時に発生しているのがこの日記という場。

 

本当は自転車で浅草のほうにでも行ってみようかと思ってたけど洗濯物干してるそばから区のアナウンスで外出自粛しましょうの声が入ってきて、うーん、とくじける。まあそれだけじゃなくて、やっぱり外出せず家にいるのが良いという意見をいくつも見てしまうとそうしておくのが安全なのかなと思ってしまう。夕方になって駅まで散歩がてら買い物へ行く。行き交うほとんどの人がマスクをしている。ときどきしていないのはほとんど男性だったと思う。この人はなぜマスクをしないのか?マスクがないのか?しないという態度表明なのか?どんな理由なんだろうなーとか思いながら歩いてた。花屋で花を買う。色がいっぱい、形もいっぱい、悩む時間が頭がすっきりするような。富澤商店でなぜか小麦粉を買う。1kgが重い。ライブハウスで音楽が聞きたい。あああーとうなだれる。スーパーでいくらか買う。いまだにカップ麺やパスタソースなどはかなり売れてるようで棚に少ない。あとなぜかポテチもほとんどなかった。みんな太るだろ、それ。私もそれが気がかりでしょうがない。肉売り場にはまたアメリカンドグ3本セットが並んでいたがまあ先週よりはずいぶんマシな感じ。先週のアメリカンドッグに占められた肉ケースはヤバイ光景だった。これは、肉か?という問いを発したかったものだ。もはや最近の買い物は食料品ばかりだ。すぐ必要じゃなくてもなんかなんとなく買ったりして、帰宅して冷蔵庫を見てみると別に買う必要なかったじゃんと思う。平日も帰りが早くなってて多分運動量は減ってるわけででも今は生理前で食欲増進期ぽいからどうしてもたくさん食べてしまうのでこれはやばい。でもなんかちょっと食べることでストレス解消しようとしてる気配があるんだよなあ。とにかく太りそう。

色んな洋服のブランドから普段ならこの時期絶対やらない割引セールのお知らせが来る。ああきっと売れなくて大変なんだろうなと思う。

今までやってた日常って一体なんだったんだろう。そんなことが可能だったなんてもう嘘みたいだ。朝、目が覚めて、テレビをつけたらコロナウイルスが収束したというニュースが読み上げられているのかもしれないという淡い希望は、でも本当はちょっと違うかもしれない、そうじゃなくて、そもそもコロナウイルスなんて夢の中の話だった、自分は眠りの中で夢を見ていてその夢はもう終わった、今はもう違う世界にいる、これまでと同じ、なにも変わってないいつも通りこれまで通りの朝なんだと本当は思いたい、テレビのニュース番組がそれを見せてくれるって思ってテレビをつけるんだけど、それで結局がっかりしてる。私はいつまでそうやって夢を見ていられるだろうか。普段、昔から見た夢のことなんてほっとんど全然覚えてないのにこんな時には夢を見ていたことに頼ろうとするのはずいぶん滑稽だけれど、でもそれが許されている。

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朝からアマゾンプライムで「ある女流作家の罪と罰」を見る。日本未公開作品だけど評判がすこぶる良い、という。前からウォッチリストに入れてあったのだが明日までレンタル100円というからラッキー。ヘッドホンをつけて見たが、音楽と映像のあわさりがしょっぱなからすごく良くて驚く。ヘッドホンつけて見る方が断然集中できる。ちょっと見てて、あれこれってもしかして時代設定は50〜60年代なのかな?と思って見終えた後に調べたら67年だった。あー、やっぱりこの時代のニューヨークなんだと納得する。この時代の良さみたいなものがだんだんわかってきたというか、掴めてきたというか。それをまず最初に叩きこまれたのがキャロルだったんだけど、雪の降るきらびやかでいて寂しげな横顔が似合う感じというのは色んな作y品に通底しているんじゃないかと。ソール・ライターの写真だってそうだ。きらっとしてるのにどこかほんのりくすんだ色合いみたいな感じはすごく好き。そして話をする距離の近さ、親密さみたいなものを感じる。この作品のメインキャストふたり、リーとジャックはそれぞれ同性愛者だから一緒に飲んで一緒にリーの家に帰宅しても飲んでた時と変わらない関係のままでいる。これが異性愛者同士だったら全く違うだろう。ふたりともそれぞれにあくが強くてだからこそ一緒にいて楽しいという時間はずっとは続かない、というのは見てたらもちろんわかるのだけど、でもこんなふうに一緒にはしゃげる関係は特別なんだろうというまぶしさがある。まあとにかくほんと音楽がいいなーと思って。ジャズナンバーばかりつづく中で突如ピクシーズが鳴るのもまた良い。あー私やっぱりピクシーズのギターの音ってすごく好きなんだなとか思う。サントラを見ると音楽を担当しているNate Hellerによるものと古いジャズの曲が混ざっているようだな。ブロッサム・ディアリーの歌曲とかすごくいいな。60年代の曲か。そういえば昨晩のジャズトゥナイトでジムホールが参加してる曲をかける時に大友さんがジムホールソニーロリンズやビルエヴァンスとのunderurrent とか60年代頃のジムホールが好きだという話をしていた。音楽もこの時代のものはどうやら私も好きらしいことが最近少しずつわかってきている。すごく面白かったなー。そのうち劇場公開かかるならまた見たいくらい。リー・イスラエルの感情や心情はころころ変わるのだがひとりの人間の愚かさや悲しさがけれど高尚でもあって、気高いからこそ過ちに気づくことも出来るのだろうなと思う、キレキレな人物だ。しかし日本タイトルはちょっとどうなの、想像してたところとのズレをそれなりに感じる。

その後昨日買ってきた花をスマホで撮ることの勤んでいたらピンポンとチャイムが鳴って、なんの荷物も来ないはずだが?といぶかしんで玄関窓からのぞいたら母がいた。ああ、、、昨日着信やらメッセージきてたのを気分がのらず全部無視してたからだ、、とドアを開ける。なんだかいろいろ食料を持ってきたらしい。一瞬、あれ?怒られるくらいに部屋って散らかってたんだっけ?!とあせる気持ちが走ったが、いや大丈夫だ私ふだんから整理整頓はしてあるんだった、なにをドギマギしてるんだ、と自分でも意外に思う。しかしこんなシチュエーションは大昔にもあったものだ。ドアからのぞいたその向こうに母がいる、大阪にいた頃もあったな。思い出される。父が車で待っているということでお昼を食べに行こうと言う。私が実家に行かないでいるのに向こうから来るってどうなんだ、と思いつつデニーズへ。ずいぶん空いていた。しかしあれだなあ、父と母の仲もほんと以前よりマシになったんだなあと改めて思う。私が家を出るのはやっぱり正解だったんだなあと思わざるをえない。ふたりとも老けていく、衰えていく感じ。すこしはおとなしくなり、小さくなっていく感じ。威張ったりする必要も、マウントとる必要も薄れていくんだろうなって感じ。家に帰って長島さんの本をようやく読み終える。話の筋を追っていくためにもミニふせんつけまくって読み進めたんだが、最後の最後の方は引用が多くて思ってたよりも新たな定義づけ、提示がちょっと少ないようにも感じられた。なんかそこに期待しすぎていたかなって気はするけど。長島さんはそもそも当事者の作家だし、自身の作品については過去の発言などからも表明はされていてそれらが第3波フェミニズムと呼応しあっているものだったというところまで導くまででも相当な仕事量ではある。なぜ長島さんがこんなことまでしなければならなっかたのか、ということがとてつもなく重い。少し前に、この本を読む前に見たartscapeでの飯沢耕太郎氏の写真の展示のレビューとか何この気持ち悪いやつ、と思っていたんだがそれがこの人のやり方なのか。なにか分かりやすそうな誰にでもわかる優しい気持ちの文体で書いてます的雰囲気が気持ち悪いなあって感じだったのだが、そんなことより事実と違う文脈を作り上げてそれで女の子写真という潮流をこしらえていたということが驚きで仕方ない。そしてそれに連なる再生産の恐ろしさ。夜ごはんにもらったハンバーグ、サラダ、春菊の卵とじの味噌汁を作って食べる。大河ドラマを真剣に見ている自分の意味がよくわからない。ナット・キング・コールが楽しいことがわかって部屋で一人でおどってる。それで結構楽しかったりする。57年のアルバム「after midnight」良いなー。ジャケもかわいい。

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朝から月曜に行った現場の追加作業。ほんの10分くらいで終わるけど。帰り道、ちょっと早いお昼をサイゼリヤで食べる。いまだにミラノドリアの値段が変わらないのが凄すぎる。いつもそれを見て安心する。最近は頼んでないけど。飲食する時、人々はマスクを外している。許されている。マスクをしているのは息苦しい。今だけここだけ許され許しあっている。そうゆう空気感を堪能する。会社で来週用のシートを作って、でももうやることはほんとそれだけ、それも終わって15時くらいには会社を出る。もう来週からは休業状態に入ってもおかしくないけど、小さい仕事がいくらかあったり、新たにきたりするかもしれないけど、期待できるようなものは全然ない。もともと営業もかけてない会社だし、ここで何かあがくことはしないだろう。また仕事がくる日を待つしかない。すっごい忙しい会社なんてのもあったりするらしいが、それって一体どんな業界なんだ。フジロックの出演者発表があって、きっと出るだろうと思っていたROVOの名前がやはりあった。やるんならその土曜日だけ行きたい気はするけどまあ自分の先も読めないし、一体夏までどうなっているものか、誰にもわからないものだ。今はみんなやる気で、やろうとして動くしかないのかな。それもそれで気持ち的に気苦労が多そうだ。ツイッター夏の魔物の広告も出てくるもんだからそれはちょっと温度差がすごいなって気もしたけれど。子育て家庭への支援金で、性風俗産業で働いている親には支給されないという差別がひどい。理解に苦しむ、できない。その定義は本当に正しいのか?ということをなぜ疑えないのか、と思う。性風俗業で働きながら子育てをしている人って、それってきっとほとんどが女性じゃないのか?と思うと余計に腹立たしい。その性風俗サービスを利用してる人たちは男性が多数だろう、その利用する側にはもちろんなんの差別も罰則もなくて、なのにそこで従事してる人たちは差別されるというのがものすごいおかしなことに思えてしまう。なぜそんな差別をするのだろう。なぜ具体的な一人一人の姿が想像されないのだろう。それでいいんだと判断できる人たちが怖い。21時過ぎから高橋源一郎さんのラジオを聞く。今日から正式スタート。小野さんとのトークで、3〜4メートルの距離をとって喋っているとのこと。NHKは対面ではなく横並びスタイルっぽいからその距離感を想像する。後半にゲストで菊地さんが登場。おじ文化について喋る。ちょうど粋な夜電波の過去回でおじきの悩み相談の回を聞いたばかりだったからなんか笑う。っていうか菊地さんもう57歳になったのか。いやまだ56なのか、でも番組では57って聞こえた気がする。まあどうせもうすぐ57なんだろう。うわ。まあでもほんと私ももうすぐ40になるんだからそりゃそうだよな。はじめて菊地さん見た時が菊地さん40だったからそれに近づいてるっていうのがこわいんだけれど。でもなんか思ってたより、去年すっぴん!の時にゲストで出たときよりも良かったかも。時間は少ないんだけど、小野さんがけっこう色々と知らないようでその疑問質問を率直に投げてくるから想定内におさまらない感じが面白かった。藤井さんっていろいろよく知ってる人だったなあ、とか思っちゃうけど。ああ懐かしい、藤井さんと源一郎さんのやりとりが。源一郎さんは藤井さんとやってた時はあれで結構おとなしくしていたんだな。なんとなくそんな感じ。わちゃわちゃっとしたまま時間終了。生放送というのは悪くない。しかし菊地さんがつくったこの番組のテーマ曲、良いな。

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またインスタでロビンさんが演奏動画をあげてて朝から声をあげる。ロビンさんの声とは。なんかそうゆう批評や分析の記事とか読みたいよなあ。バンドによらないものとして。20代と40代になっていく声とではやはり違うものがあり、その声の変容、変質ってどう語りうるものなのか?歌声とはどう使われてるものなのか?不思議に思えてくる。

昨日ドミューンで久しぶりにファンシー絵みやげがやってるのを見たんだった。最初の15分くらい見逃して、夜ごはん作りながら見たが、今のコロナの影響、状況のもとでの観光ということについて喋ってたらなんかどんどん暗くなっちゃうし話も行き詰まっちゃうしで、ええええ大丈夫?と思ってたら宇川さんが見事に文脈を投げ落としたので見事だった。さすが。こうゆうことができないとなんだなあと思った。できないとだめというか、そうゆうミクロからマクロになるような視界の広がり、視点の切り出し、提示があることで急にものごとの面白さがふくらむ。そして途中から打ち合わせに来ていて居合わせたという黒瀬さんも参加し出したことでより一層文脈に接続していく。でもなんか後半飽きてしまった。なんか、文脈で語られすぎるとそれはそれで今までの絵みやげと違うような気もしてしまい。

テレビでは出演者の人たちがみな間隔をあけて立ち、座り、まるで前からそうだったみたいに喋ってる。ソーシャルディスタンス、というそのぽっかりあけた距離、間隔はなんだかおもしろい。私たちは無駄にくっつきすぎだったのか?ラジオではアクリル板のついたてをしてるとか。今日のたまむすびは赤江さんが気管支炎とかで自宅からの電話で終始参加していておもしろかったなあ。こんなんもありなんだ、というのがよかった。

来週からはもうずいぶん仕事はヒマかもしれない。まあでもとりあえず会社としてお金は金融公庫から借りる算段だと思うし、稼ぎ、収入が減ってもなんとかあさいさんと私が食いつないでいくことはできるのではないか、多くを望まないしばしの貧しさに耐えれば、というような気もしてきていて、どうせ不安しかないと思ったら私ひとりでおびえたところでどうしようもないことなんだなといくらか開きなおる気も出始めている。もちろん不安は消えないけど、こわいし、憂うつだし、相変わらず朝目覚めてはもうコロナウイルスが一切なくなった朝なのかもしれないと思いたがっている高揚があるが、テレビをつけて、ああ、そんなのなかった、とコロナウイルスがとびかう世界で今を生きていることを実感する。

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若者って言われても私は該当しないよなあという気がする。10代、20代を若者と呼ぶなら、私はそれらの人たちと違うよなあと感じる。ではなんなんだろうと思うと中高年というほうがしっくりくる感じがする。シワやしみの存在感、体力の衰え、記憶力の衰え、なんかを感じると明らかに若者ではない。ムリがある。でも若年者にふりわけられるらしいというのは受け入れがたい。まあ意味あいが違うんだろうと思うけど、でもやっぱり10.20代と同じというのはムリがあるでしょと思わずにいられない。

国から布マスク2枚配布という報道でツイッターがわいていた。だから安倍さんだけあのアンバランスな布マスクしてたのか?あれと同じのが配られるのか?あのタイプのマスクしたことないし、あれではリップつけたのがそのまま密着しそうでいやなんだけど。しかしほかの国と比べると随分みじめにみえちゃうなあ。国民のことなんてぜんぜん考えられないんだろうなあという気がしてくる。欧米各国の対応を見てると、なぜその対応をするのかが自然とわかる気がする。政府のその対応を見て国民は今すべきこともコロナ収束後のことも自然と理解できるのだろうなと思う。国というのはなんのために機能する、できるんだろうか。国民という人たちのことをなんだと思って、どう見ているのだろうか。そうゆうのが全部浮き彫りになるようだな。苦しむなら苦しめば、死ぬなら死ねばいいと思われているのがこの国のようだな。


帰宅してもなんだか毎日ゆううつになって気持ち悪くなる気になる。もやもや落ち着かないし、ぼんやりぽっかりしてしまう。変な調子。なんにも楽しみにすることができないせいだろうか。読んでない本、見てない映画はあるが、ぜんぜん積極的になれない。無為な時間ばかりになってしまう。ヘッドホンで音量大きめにして音楽聞くのがどうやら一番逃避できる安心のようなもの。ヘッドホン買っといてよかったなあってつくづく思ってる。強制的に音に、音楽に占拠されるから楽だ。

downyのロビンさんがインスタにアコギで演奏してる動画あげてて、それがくっそかっこよくて声をあげてしまう。ロビンさんのコードを抑える左手がすごく好きで、特にセーハのコードのときの指のかまえがすごくかっこよくて美しくていつもそこに釘付けになる。それが美しいのはロビンさんだけだ。セーハでまっすぐに伸びる人さし指の対比で中指や薬指の関節がくの字になった屈強さ、鋭角をつくるまるで幾何学の構造、そこから出すのはハードな音なんだけど繊細で哀しさがある。そもそも見てるだけでもうわつりそうっと思ってしまうようなコードをがちっと抑えてくるロビンさんならではのものなのかなとは思う。右手のアタックも強いのがアコギで弾かれるとまたよくわかる。それはどのギタリストもなんだけど。

柳樂光隆さんがビルエヴァンスに関するプレイリストをあげてたので見てみたら、私の好きなジムホールとのデュオのアルバムUndercurrentからRomainが入ってて嬉しい。ほかのビルエヴァンスよく知らないけど、このアルバム、この曲は特に好き。早速サブスクで聞く。エレピのアルバムが良いという発見。

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