液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

やっぱり今日も出かける気はしない。だるいわけでもないけど、何かを見たり考えたりする余裕がないような。たまった洗濯物を干す。多すぎる。選択のタイミングが雨でズレるとこうなる、それをうまく避けたいのにできない。選択の周期はうまくコントロールできない。ひきつづきACの本を読む、当てはまるとか心当たりのあるとこにはふせんをつけていく。でもすごく役立つって感じではない。ただ、言語化されていることは頼りになる気がする。言葉によって具体化されていけばいくほど個人個人の体験とはずれていってしまうような感じがするのは気になる。18時からBSでいだてんを見て泣ける。芳垣さんのドラムが頭の中でイメージされる。19時過ぎにあさいさん夫婦と待ち合わせて夜ごはんを食べに行く。肉の店を予約してくれていたので、肉をもりもり食べる。お酒も二杯飲む。冬の方がお酒が飲みたくなり、最近は梅酒ソーダ割りをまた飲みだしていたので良いタイミングだった。風が冷たい。自転車で酔いもさめる。若い頃に比べたら随分と酒に鈍感になってきたんだなあと実感する。確実に年をとっている。もっとはやくにこの状態なら良かったと思うけど。

起きたら8:15で慌ててゴミ出しをする。最近の休みの日は早くに起きれない。夕方から仕事だからそれまで出かけようかという考えもないことはなかったけどなんだかかったるいのでやめる。アマプラでガスヴァンサントのドントウォーリーを見始めた。ああやっぱりこの人の撮る映画って心地よくて好きだ。それはこの映画でいえばシーンのつなぎとかカメラのクローズアップの動作とかカットの切り返しとかの全体のリズムに感じるし、でもやっぱりいつも信頼できるような視線がある心地がするのではないだろうか。作品は決して同じバリエーションなどではないし万人ウケする映画を作っているとも思えない(でもグッドウィルハンティングは名作)けど、ドントウォーリーも冒頭からしてひどい主人公にあきれ返るけど、でもガスヴァンサントはどんな人間のこともよく見ている。アルコール依存症の自助会のリーダー的な役割のドニーがなかなか謎もある人物だなあと思っていたら少しずつ彼の事情見えてきて、終盤のやりとりはグッドウィルハンティングを思い出した。グッドウィルハンティング見直したくなっちゃうな。やっぱりガスヴァンサントの映画は面白いなー。ルーニーマーラもやはりめちゃくちゃかわいくて、セックスのシーンもホアキンフェニックスとふたりして楽しそうでかわいくてすごく良いなと思った。

18時から仕事でまた大宮の現場。現場で直接待ち合わすためJRに乗って行ったが久しぶりにJR乗ると電車もホームも人が多くてつらい。なんか当たりがつよい、私は余計な人のような気さえする。東京にいる意味なんてないのではないかと最近は思ってしまう。ずっと、どこか地方都市か田舎で暮らす方が自分には良いのではないかと思っているけれど、そういった地で仕事を探すほどの熱はない。けれど東京の人は自分のことが大事で優先で他者など邪魔ばかりという感じを受けてしまうことがあり、それらに触れるとつらい気持ちになってしまう。もっと引っ込んだ場所に住むべきかどうかは悩ましいところだ。地下鉄はまだマシだ。私鉄は私鉄による。

わりとスムーズに終えられて20時前に終わっただろうか。館内は暑すぎて汗だくだが外はとても寒くて疲れる。施設内はどこも暑すぎてばかじゃないのかと最近は思う。はじめて会った京都の電気屋さんがめちゃくちゃ感じの良い人。電気屋さんで気軽に喋れる人なんて今までなかったかも。女でもまともに喋ってくれるんだなと思うとそれだけで仕事もがんばれる。って書くと男尊女卑が横行してるかのようだがそういうわけでもない、私の思い込みか、顔のない他者なのか。

帰宅して中古で買ったAC関連の本を読むが、ちょっとイマイチかも。でもなんとなく概要はつかむ。やはり結局は自分自身の事柄としてつきつめていかないとだめなのかも。

午後から大宮で現場。学会の仕事は今は滅多に入らないので小さい規模とはいえなんだが探り探りでぎこちない気もするし、とは言え大概の流れのことは理解できてるのでそれなりに動ける。でもやっぱり細かなとこまで気がきくようなことはできない、もはや忘れていて、自分の能力のイマイチさを感じる。まあ時間などの余裕もあるしかなり簡単な現場ではあるけど、でもそんな内容でさえ自分はこんなものか、と思うとパッとしないものだ。あと重いもの持つのは単純に耐性がなくなっててつらいな。腰がついていかない感じだ。明日も夕方から仕事。

日も暮れて現場終わりであさいさんと別れ実家へ。大して暖かくはないが膝まであるダッフルコートを取りに行く。父だけいるだろうかと思っていたら父はいなくて母がもう帰宅しているということを鍵を開けて入った玄関で確認する。私の部屋は玄関入ってすぐ左、リビングは廊下の先、ふだんから帰ったことに気づかれないことはよくあった。だからそのままにしようと思ったし、決めていた。コートと、あといくつか本を持っていこうと思っていた。しかしこないだまとめておいたはずの本がなかなか見つからない。私の部屋は猫の用具やしょうもないゴミみたいなものたちで散らかされているまま。そのなかで本が見つからない。こうゆうような状況は子供の頃から苦手で、なんでどうしてなんでどうしてともやもやして仕方がない。猫が1匹、ドアから部屋の中を覗いていた。大きくなったようだ。私のことなんて覚えてなさそう。母が猫を呼ぶ声がしている。廊下にまで出てきているが、それでも私の部屋の電気がついていること、玄関に私の方々あることになんて気付きはしない。特に物音を立てなければそれで気づかれないだろと私も思っていた。母はそのままリビングに戻っていった。見つかったら見つかっただが、わざわざ姿を見せる必要はないと思っていた。そこでかわす言葉もないだろうと思った。むしろ苦しい。ああ、とか、うん、とか、そう、とか、何かを言ってるんだかなんだかわからないようないかにも気だるそうな相づちをするだけだろう。ハワイから帰ってきて以来、法事のことでメールした以外はもう一切連絡は取っていない。私も頑固だが向こうもわざわざやりとりする気はないのだろう。もう連絡を取る必要がない。年末年始も実家に帰ることはないだろう。泊まりで帰ることはもうしたくないし。自分が保てなくなりそうでこわいのだ。私は逃れたい。探していた本はクラビノーバの下に並んでいた。ほっとする。他にも本棚からいくつか取る。私はこんなに本を持っていたんだっけと少し驚く。部屋の電気を消し、靴をはいた。猫が2匹いた。誰も私を見ていない。家のドアをそっと閉めた。

夜、らららクラシックで栗コーダーカルテットが出ているのを見た。ポリリズムの解説など、関島さんの編曲の妙が具体的で混みいった複雑さがありながらそれをいかにも楽しんで作っているという人柄が見えて、良いなあと思う。しかし栗原さんも関島さんもテレビで見るとずいぶん年を取られた感じがする。最近2度もライブを遠目でながら見てるけど決して近くで見てるわけでもなかったからなんだかびっくりしたくらい。思わずデートコースの頃を思い出す。まあ、あの時参加していたみいんな、観客含めて年をとったわけだからと思うとなんて遠い昔のことなんだろうと思える。でも、べつについほんのちょっと前でもある。でも、人は年をとるし、年をとれば見た目は移り変わっていく。同じ人だし同じ人じゃない、ようだ。でも栗原さんがベートーベンの運命で首を前後にして拍を取る動きをしていたのを見て、うわデートコースのポリリズムのときのベースを弾く栗原さんの動きと一緒だ、と重なりを感じた。やっぱりそうなんだなあと、思った。

なんとなく気持ちが落ち込む。昨日の夜現場で今日は少し遅いスタートだったけど、そうゆう風にいつもと少しでも時間感覚が狂うと楽なようでいて楽でもない。帰りもねむたい。もう明日は仕事も全然行きたくない。とはいえ明日はダムタイプ見に行くので早めに上がらせてもらう訳だが。何か楽しみというか、希望がないとやりきれない。ろぼはまだ再来週だった。とおい。早く死にたいと思いながらも早く死んでいかないのは卑怯なのではないか?という疑問がわき起こる。今、映画ジョーカーのサントラをヘッドホンで聞き始めているがこれは音が低すぎる。

おととい見た坂本さんのライブはやはりとてもよく出来ているものだった。最高とか完璧とかいうものでもないが、圧倒的に落とし込まれるものがある。去年の1月、だからもうほぼ2年前の初ライブ、初ワンマンのリキッドの時ですでにその何か他とは違う異様なムードといったものは感じていて、それはあの日あの場所に会場全体から生まれてしまったものとしての総合性がでかいとも思っているが、今回は明らかにバンドとして、音響や照明や映像といった見せる側の合致から表現されるものが広がりを持ち、深くなっているように感じた。その体験に、リキッドを更新していく上がった段階を見たように思う。良いとか悪いとかの判断でさえない、もっと、この表現に対してなにを感じられているのかを自分の中で直接的にあらわにさせられる、ような。良い悪いといった判断はもちろんできるだろう。けれど、それよりもっと単純に率直に、それでいてなぜか裏返って隠れてしまう、隠してしまう自分の戸惑いや恥じらいが顔を出したり引っ込めたり、その捉えられそうで捉えられなさ。良いものを見せられるであろうとことはぬかりなく信頼していたが、完全にそれの何層も大きいものを見せられてしまったなあと思う。けれどまだ余地があり余白があり、よくできていると思うのに未完さを感じさせてもくれる。手応えがあるわけでもない。ない、ということでしか語れないのは確かなものがあったから、だろうか。そうそれはすごくはっきり感じていた。あの人たちは存在も音もすごく確かで、こんなにはっきりと実存を示すことがあり得るのかと、ちょっとした驚きを感じていた。

ホールの椅子席で見るというのも嫌いではない。足でリズム取りづらいのだけが難で、緊張気味に固まっている体も次第にほぐれていく。その自分の身体の変わっていきようは落差があればあるほど面白い。そうゆう時は安易ながらその徐々に気持ちよくなっていく感じ、身体が変わっていく感じがセックスに似ていることを思い浮かべている。自分の身体が変われることはいつもとても面白いと思う。決して多くのどのライブでも起こりうることではないが、ワンマンという長い時間をかけて生成されていく時間や空間、その変化に自分の身体もうまく適合できたというような時感じられる快感は言葉にならないなあと思う。でも例えばろぼはセックスというより運動って感じでセックスが運動ということもできるかもしれないけど決してそこでろぼとセックスはイコールにはならない。それはまあ体の準備体操的な面からして違うかなって感じだけど。

まあとにかく坂本さんのライブはやはりワンマンがすごく面白い。時間、というものをこんなに感じることはないかもしれないと思う。あとはまあオウガもやはり似てるかなあと思うけど。大きな規範の時間という枠、1曲という時間、1曲と1曲がつながっていく時間、瞬間にしかなく、後と前にある時間、過ぎ去り未来に到来するであろう時間、全ては過去になるのに何度でも繰り返される時間、音楽の時間、そういったことを時間が過ぎ去っていくさなかでイメージとしても触感としても提示されている気がする。ああ全然言えない、感じていることがまるで全然言えない。自分でも全然よくわからないのだ。口が動かせない。もごもごごおごもぐもぐ。

おばあちゃんの49日の法要が朝からあった。駅で母と待ち合わすが、ハワイの旅行ぶりで会うためお互いその時の重たさを引きずっているのだった。少なくとも私はそれをぬぐい去りなかったことになどできないのだった。平気だと思っていた気持ちが、顔を合わせただけで一気に引きずり下ろされ、露呈される。父に至ってはほぼ一度も視線を合わさなかった気がする。まあもともとそんな感じ、いつも通りとも言えるので大して気にはならないが。姉は出産間近ということで欠席らしい。小学生のいとこだけが若く、また、誰だかよく知らない親戚という人たちがいた。街中ですれ違ったところで気づくこともないだろうに、ここでは挨拶を交わす、よくわからない身振りの挨拶を。そうゆう自分の身体があまりに不自然で気持ちが悪いと思う。そんなことをするくらいなら、紫のスーツを着たジョーカーのように軽快なステップで登場したい、その方が自分には合っていると想像する。私の身体はそちらむきだと思う。そう、過去に決してそういう事例がなかった訳じゃないのだから。一通りの儀式が進む。なにも、自分には訴えてこないものだなと思うと自分が死んだらこれはごめんだなあと思う。あつらえられた場所も道具も動作も、全てに意味合いはあるのだろうが、自分には全然馴染みがない。これならキリスト教の方が、まだ、というより断然、馴染めるのではないかという気がしたりする。でもまあそんなのも適当な感覚で、所詮どんな宗教に接しても自分はここにいて良いのだろうかという所在なさと無作法な自分の所作のおかしみに耐えられないのだろうと想像する。両親とは特に会話らしい会話はせず、する必要もないくらい適当なかんじでのりきれてしまう家族というこしらえられたつながりをうさんくさく感じつつ、昼食を断っていた私は足早に去った。はやく去りたかった。自分のいる場所ではないと感じる。自分だけが異物のようだ。

モスでお昼を食べて銀座へ行き美容院でカットとカラーをしてもらう。最後にカラーしたのが7月なのでずいぶんだ。1時間半ほどだったが、シャンプーしてもらっていたらそれだけで眠くなってくるのはいつもだがどんどん体がだるくなってきて足が重くなってきた。目が二重になって顔面がすごく疲れる。眼鏡をしてないぶん、なにをどう見て、というか見えてないんだけど、どこに眼球を置き、向けていいのかわからなくなるのが疲れるのだ。しかしカラーもカットもとてもよい感じにしてもらったのでありがたい。ありがたいがすごく疲れた気持ちになってしまい内心は申し訳ないような気持ちも襲ってくる。ロフトに行ってラップを買い、すこしぶらついてケーキでも食べたいと思うがキルフェボンもハーブスも混んでそうだと思うと買って帰るのも面倒だ。結局帰ってきた駅でリンツのソフトクリームを奮発して食べた。上品だ。でもおかげてすこしすっきり。家に帰ってほっとしてつらくなり寝た。起きていだてんを見た。作ろうと思ってた夜ご飯を作らず、残り物で簡単に済ます。