液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

長年の疑問として、男性が使い分ける「俺」と「僕」は一体なんなのか、というのがある。加えて「私」もあるにはあるが、それはおおよそ場所や状況に応じている、というのがわかりやすく示されているし理解ができるものとして受け止めている。それに「私」は女性も共有している。

だが俺と僕はわかるようでわからない、わかりきれないし、わかりたくもない、いやそんな使い分けできる言葉があるなんて男はズルいんだ、という事ですらあるような、ないような。女性でも自分のことを僕と呼ぶとか、歌詞で僕と書き、歌う人もいるが少なくとも私自身は全く使ったことがない。こうゆうことだろうか?と度々思うのだが、いまいちしっくりこないような、結局はよくわからない、わかりたくなんかない、と思うのだ。わかりたくない、という反動が出るのは、わかろうとうしようとしてみると、ドアを開けた時点で男の特権のような、男だけが選択のできる世界が広がっていて寒気が全身に行き渡ってそんなの知りたくなんかない!と逃げ去ってしまうような態度の気がする。ずるい、と思っているのもどこかで本心だ。得体が知れない気持ち悪さでもある。

使い分けている、使い分けることができる、ということ自体はわかっているのだが、さも自分を演じ分けているのだということがあまりにも露骨だから気になるのかも知れない。

 

今日もあさいさんは現場。新たにつくりものの仕事が増えていた。生理でまるで自分が血生臭いかのような気がするのは気のせいだとしても、自分でそう思っている分には何か悪くないものがある気がする。予備のナプキンをあまり持ってきてないことに気づき、というか忘れてきてしまっていたので早めに終わらせて帰ろうと算段する。そいえば弁当も家に置き忘れてきていたし、リュックがガバッと開いたまま家から駅までの道を歩いていたし、何をそんなに急いでいたのかと思うとアホらしい。今週は体調悪いし映画とかギャラリー行くのもしんどいのでつくづく嫌になる。じゃあそんな時こそと思ってゲンロンのニコ生放送のさやわか×大井昌和×東浩紀「マンガは歴史と社会を語れるか2ーー大学紛争と『ビューティフル・ドリーマー』の問題、あるいは大塚英志ジェンダーについて」を見た。ほとんど聞いた、だけど。パソコンで作業してる時は流石に耳に入らないので避けて、手を動かしてる時だけ見てそれでも7時間あるので見終わらず。生理で体のつらみがあるのもイヤフォンして聞くことに集中してると体のことをいくらか忘れていける気がする。最終的には腰が痛くなったが。なぜかちょうど昨日ゴーン氏の記事から連合赤軍のことを調べるに至っていたので前半の話はかなり興味深かった。レッドを読むべきなんだろうか。高橋留美子の話もなるほどなと思い、特に、自覚なしにジェンダーを越えたものを描いてるというような話はわかるような気がした。大学の時、K先生が一時期ずっと部屋のテレビでビューティフルドリーマーを流していたので私は何度もよく見ていたが一体どこまで見てたと言えるのか。明日までなのでなんとか見終えたい。

こないだ見た片渕監督の出演回も良かった。海外のアニメーションを見ることにもう少し意識的になりたい。ゲンロンも今年はもうちょっと積極的に見ていくようにしたいと思う。などと言っても実際実行できるかどうかというと我ながら疑う。

友達から急なメール。いつものように急だ。急であることさえにも慣れている自分がいた。友達がありがとうやおやすみを言えるようになっていて、それが、いつも、不思議だなと思ってしまう。昔から言っていたか、どうだったか。それは私自身なのか?わからない。

初めて気づいたというわけでも無いけれど自分はある種の過激な表現に惹かれるところがあるのだなあと思う。どんな過激さか、過激という線引きは、など規定すべきものをすっ飛ばしてかなりふんわり、けれど自分の中ではわりとはっきりと、そう感じ、思い描くものがある。ダムタイプの最初のメンバーは京都市芸の学生だった人たちが中心になっていて、キュピキュピの石橋さんは同じく京都市芸で同年代で、みたいなのをどっかで読んでなるほどなあと思いながらフォコンの写真を思い出す。過激なものが好きと言いつつ、いや自分は静かな表現が好きなんだとも思う。でも両者は結局対立するものではなく、およそその両方を表現できる人たちが好きなんだろうと思う。過激さ、に惹かれる理由、原因として思い当たるものがある。それは子供の頃のヒステリーの強かった自分の姿だ。まあ、つい最近までも存在していたが。自分の中にある自分でも手のつけようのない激しさ、心も頭も沸騰して暴れ出してしまう体、それは訴えで、だれにも届かない訴えを叫んでいた。親はさぞ手を焼いたことだろう。自分のそんなきわどいふるまいを抱えながらもそれは分離することなく平然と生きていた。それはいつだって爆発する準備ができている。でもまあそれはやはり子供時代に家庭内で育まれたものだと思うので、他者だけの前でそれをさらけ出すということはないように思う。むしろ他者に対しては無理なのかもしれない。じっとしていることが苦手で、そのこともずっと母に言われ続けていたのでダメな子供なのだと思うに値した。机にじっとしているのは確かに成長しても苦手で、なんかしら体を動かしている方がラクだと思うようになった。私は体を、エネルギーを持て余している/たのだと思う。言葉で言い表せない悶えを必死に発散させていた子供時代を思い描いては、それは自分にとっての正しさだったのだと思う。過激な表現を目にすると、惹かれ、安堵する気持ちがある。居心地よく、許されることを感じる。許し、は自分にとっては数年前までは大きなテーマだったと思うけど、今ではすっかり普遍的なところに落ち着いたかのような。穏やかに許しという事を受け入れて考えられる。つまらないかもしれない。過激さに自分の身体を重ね合わせ、透明化する。それで私は救われる気持ちになっているかもしれない。

池袋の花屋で青い花を見かけたので最寄駅の花屋でもあるかなと思って探したが、青い花は売っていなかった。

内容がなくても日記を書こう。昼前に清澄白河の現美へ。チケット購入に長蛇の列、これはもしやミナペルホネンの人気か…日曜美術館…まあその予感もあったので30分ほどならんでチケット購入。ダムタイプのS/N特別上映を見る。なんて情報量が多いのだろう。見れば見るほどもっと見たくなる。展示はすでに見てるけどチケットがあるのでさらっと見た。人が多くてあまり集中力が持てない。やはりターンテーブルの新作が好きだなと思う。ずっといたい。前とはまた違うように聞こえた気がした。気のせいか。これは音楽なんだろうか、なんて問うのは愚問か?でもそう問いがでることを誰が止められるのか?音楽というくくりに入れる必要もないだろうと思うだけ、個々の音があり群としての音の重なり、集まりがある、でもだからといってそれは音楽というものに押し込めるものではない、音は音であるというだけ、その存在をもって私が知覚する世界を押し拡げる。ショップで古橋さんの本とサウンドアートの本を買う。また、読んでない本が、たまっているが、気にしないときは気にしない。ルミネによって靴下屋で先週は30パーオフだったのが50パーオフになってた靴下を購入。靴下ひとつでも数年前より確かに高くなっている。そういえば昨晩はおなかがすいて沢山食べた(豆乳ベースの鍋でうどん、キムチ、肉、野菜にサラダ、ヨーグルト、アイス)のに今朝もその勢いで冷凍してあった食パンとバゲットをフレンチトーストにして食べたのでお昼は食べていなかった。帰宅してとりあえず洗濯物をたたんでお湯を入れて湯船で文藝を読み、出てからサラダとうどんスープの素を使ってトマト、エリンギを入れたリゾットを作った。チーズを入れまくったのでカロリーや塩分は高そう。計るものはないが。生理前で体調が良くない感じはうすらある。体が疲れている。胸がいたい。日記に作った夕飯、食べた夕飯を記したい。なんとなくおもしろいような気がして。

今週は月曜から仕事だった。前日から目覚ましの時間で起きるよう慣らしていたけど、また働く日々が始まるなんて信じがたい気持ち。自分が働かなくたって世界は回っているが自分が働かなくては私の生活は回らない。今年はもう少し真面目に働き暇な時間をもてあそばずにするようにしたい。自分のなかに仕事に対するモチベーションがそもそもない、低い、という状態があるがそれはで良いのだろうか?と思わないこともない。今のままの仕事でいたらそれはずっとそうなのかもしれない。何も要求されず、私も向上しない。そんなのはつまらないなと思う。でもそのぬるま湯にいる気楽さをいついかに放り出せるというのだろう。ずっと自分のあり方に疑問があって、そのままでいて良いのだろうかと思っている。でも?自分はどう生きていいのかわかっていないまま生きてる。それはときに虚しく、それなりの充足がある。

 

木曜に会社でひとりで暇になったのでTver吉高由里子主演のドラマの1話をなんも知らないまま見てみたら柄本佑が出ていた、お、ついに民放ドラマにもいい感じに進出かーと思う。わからないけど最近はひたすらNHKと映画でばかり見た気がして。最初見たときは民放だったわけだが。最後の方で夜道をひとり車を走らせてるシーンのところがかっこよかった。おでこがきれいだ。

ついでにダウントンアビーの最終回ってどんなだったんだっけと思ってアマプラで見ちゃう、見ちゃうとハマる、何度見てもおもしろい沼。最後の最後に爆発する姉妹間の妬み僻みの妨害、言い争いが最高に良いなと思う。あんな高潔なたまりにたまったうらみの言葉の応酬を私もしてみたいと夢見る。

1/1 多分生まれて初めて正月に実家にいない。おせちもお雑煮も食べない。いつも通りにパンを食べた。もともと元旦だからって特別なものを見出すなんてあほくさい、くらいの気持ちがどこかにあるとはいえ何か気持ちが違うのだろうか、なんて思っていたけど特になかった。やはりいつもと変わらぬただたった1日の朝だった。セールに行こうか映画を見に行こうかとしていたら母から実家に来ないのか、買い物に行くのかなどしつこくメールが来ているので池袋に行くと言ったら母も来ると言う。西武で落ち合って、屋上で簡単な昼ごはんを食べることに。私が席をとっといて母がお弁当と飲み物をトレーに乗せて持ってくる、と思ったら何故か盛大に飲み物を落としてぶちまけていた。私がなまけて自販機を探しに行かなかったのも悪い気がするが、なんて言うかこういう時、妙に親が年を取ったことを感じ、親と幼い頃の子としての立場がまるで逆転するようだなと思えてしまう。まあそれなりにおっちょこちょいなところがある人だとは思うが。これがもっと時が経って介護になれば、その時はどう思うんだろうな。

買い物はレギンスを買ってたら帽子が欲しい気になりつついやいや必要ないとふりきり、もう随分すっからかんになってそうなトゥモローランドに行ったら黒の細身のストレッチの効いた私好みのパンツがあった、ちょうど5.6年はいてたポロラルフローレンのパンツが膝が出るようになってきてて似たものがどこに売ってるかなと思っていたところだった。もしやこれがそれなのでは?と思わされる。試着したらぴったりで良かったのですぐそばに置いてあったニットも一緒に買う。どちらも40パーオフだった。

 

1/2 茨城のおばあちゃんのとこに行くというので10時頃実家へ。本をいくつか持っていこうと思っていたのだが、欲しい本がどうも見つからない。おかしい。もしかしてそういえば数年前に売ったのかもしれない。もう自分にこの本は必要ないんだ、必要となんかしないんだ、と思って。うーんなんてバカなんだろう。それでも色々取り出して手提げズッシリ。洗濯物干しなどをやさられる。途中、境の道の駅に寄ってお昼を食べた。ご飯はすごく美味しかったけど、建築がなんだか微妙でなんでこんな構造、草食なの?と思っていたら隈研吾の建築だと小さく看板に書いてあった。高そうな名前だ。

おばあちゃんに会いに行ったのは久しぶりかも。食堂でみんなでテレビを見ている所に入っていって、おばあちゃんの車椅子を押して出ていく。そこにいるおじいちゃんおばあちゃんたちの存在感は圧倒的すぎていつも直視できない。母は相変わらず怒ってばかりいる。耳も遠いので私が耳元で繰り返し言う。おばあちゃんと母との関係に自分と母との関係を重ね合わす。もう、少しはすでに二人の関係をなぞり始めているのではないか、と思う。

帰りに赤羽に姉のところに寄った。まだ入院している。赤ん坊はどんどんこの世界に順応していこうとしているようだった。肺で呼吸することを習得していっている、つい一週間前まではえら呼吸でもしていたんじゃないだろうかと思わずにいられない。なんて不思議な生き物なんだろう。猫の生まれたてくらいしか間近でこれまで見たことがない。猫よりもっと妙。

 

1/3 あさいさん夫妻と一緒に車でレイクタウンへ。人がすごすぎてびっくりした。デパートなどとは敷地面積自体の比が違うので人の数もまるで違うのだった。もともとあまり来ない、馴染みがないショッピングモールだが、なるほどこうゆうところに人々は来ているのか、と知る。どのような人たちか、と言うところまではよくわからないけど。特にこれといった買い物はなく、セールになってたタオルを買った。

 

1/4 aちゃんとお昼に恵比寿で待ち合わせ。東口に行った方のお店で私が見つけていたイタリアンのお店、ヴァカンツァへ。ランチのコースで大満足する。パスタもピザも前菜もどれも美味しかった。おせちを食べていなかった分、華やかなものを食べれた充実感。ゆっくり時間をかけて食べれたのも良かった。そのあとはアトレのハーブスで、さっきもデザートついてたけどケーキを食べる。久しぶりに食べるミルクレープ。aちゃんの話を聞いて、なんだかショックな気持ち。悲しく、残念になる。結婚って、そうゆうものなのだろうか、と知らないだけに残念になる。少なくとも友達の結婚においてはそうあらないでほしいと思ってしまうのだ。結婚して、子供を持つ家庭もあれば持たない家庭もあって、家庭、家族というものは一人の人間の個とはまた全く違う生命体としての姿形があり、それはある種、一個の人間よりもっとぐっと奇形なものなのではないか?と思えたりする。そしてそれは外からはよく見えず、分からず、簡単に首を突っ込める雰囲気ではない。外側と内側があり、見えるものと見えないもの、誰に全てが見通せると言うのか。家族、と言う形で閉じていってしまえばしまうほどその家族独自のルールや価値観が育まれ縛られてしまうのか。人を見下したり差別的視線を投げていたり皮肉を平気ではいているような人は、ダメだと思う。17時過ぎに別れた後、新宿のリーバイスに寄ってジーパンを買う。主に仕事用だけど、今がもしかして一番ジーンズを履くのが楽しいって感じあるかも。ローライズのスキニーとかはしめつけがあったし下着が出ないかなど気にしたりしなきゃいけなかったけど今のはハイライズでゆったりとしてて、それが自分にあっているように思える。大体いつも冬のセールの時にリーバイスで買うのが恒例。セールで6千円くらい。

 

1/5 たまっている本を読もうと思うけど一冊に集中して読めないとか、あ、そういえばあれは〜とかふと思い出したこと、思いついたことに気が逸れてしまうし、以前にまして集中力がなくなっていってるように思う。まるでダメ。ルミネで下着を買おうと思っていたらほしいデザインのやつは売り切れていた。コスメキッチンが10パーオフをやっていたのでチークとグロスを買っちゃう。あさいさんにもらったお魚盛り合わせがあるので連日食べている。魚にブロッコリーとトマトのサラダ、白菜とネギと春雨のスープ、ご飯、納豆、こういった感じの夕飯がしっくり来る。