日記として書けそうなことはちらほらある気がするのだけど、身体がすぐにベッドに入り眠りにつこうとしている。でも少し暖かくなってきたのだし、少しは抜け出ることを覚えてもいいのでは。しかしすでにキーボードを打つ手がだるいな。最近隣の部屋の人がやけに静かでこわいくらいだ。騒々しい人であったはずだ。西日が入り込んで帰宅した時の部屋が暖かくなっているので対策をしたい。

 

自分が気になっていることはある程度共通しているのかもしれないな、と思った。しかし、それをうまく言葉を使って説明することができない。言葉がまずわからない、言葉の使い方がわからない。どのように説明されうるものなのか、わからないのだ。

ただ、自分のこころというこれ、身体、脳、といった各器官についての疑問があるということだ。私にとってそれらはバラバラだ。そのバラバラさはしかしこの一つのまとまりの中でのバラバラだ。だから、戸惑うし不思議に思う。自分の中で一体何が起こっているのか?

でもそういった問いは決して科学的に解き明かされる現象の真実として知りたいってことじゃあない。たとえいくら実際の働きや機能として説明されても納得するということはないんだろう。いや少しはするか。したとして、それで満足できるのか。

自分にとっての泣くということ、涙を落とすということ、それは世間一般で捉えられている一切合切とは全く違うものとして、現象として扱うということが大学の卒業研究でやりたかったことだろう。要はそれと同じようなことがまた同じように私は疑問に思うのだ。

それついてはツイッターに書いたが、まとまりのないものだ。そして、書いてみるとほんとくだらないことをわざわざ疑問に思っているものだと、虚しくもなる。自分の頭が浅はかで、悪くて、つらくかなしくなる。そういったしょうもないことに疑問を感じて消費していく人生なのだろう。なにも残らなくて良いのかもしれないが。ああ眠い。疲れた。もう33歳だという。そりゃこりゃ疲れるというものか。雨宮まみさんの女子を拗らせてを読んだ。

結局流れる自己嫌悪。嫌なものだが、何度も私はこれを味わうだろうこの先もずっと。つくづく生きてる意味のないための要員だと思える。生きてる意味のあるばかりの人間だけで満たしはされていない。意味のない人間もちゃんと定数そろえておくことが大事なのだろう。それは自らを自らが定義づける人々として存在しうる。べつに私は他者を意味のない人間と指摘したいわけでもないし、むしろ他者に対してはそんなことないと否定するだろう。だが自分に対しては全くそれらは無効であり、私はどんなにさとされても頑なにそれを受け入れることはできない。それを客観的事実としてこのように言葉にしてしまった時のこのかなしみはなんなんだろう。あほだろう。それならそんな考えやめてしまえば、ぶちこわしてしまえばいいだけ、振り切って自分を変えたらいい。でもどう考えても自分には何もないのだということに行き着いてしまう。そのようなからっぽな人間も実際いるのだと受け入れざるをえない。自ら選んでその状況に進んで立ち入ってるかのように思うのに嘆いてるなんてほんとバカみたい。自分でもわからないのだ、そのへんのところ。どうしてわからないのかがわからず、そして恥ずかしくて、その恥ずかしさを表に出すこともできず、解決なんてないのだからと自分のみじめさを自分でも見ないように隠してしまう。この、私の恥の感覚はいったいどこから来ているんだろうかなあ。恥ずかしくて、こわいのだ。

 

ときどき自分の顔が心底いやでいやでしかたなくなって、嘘みたいに大げさなため息でもつかずにはいられないようなことがある。この大きさ、形、おかしいだろ、気味が悪い、醜い、と思うともう立っていることさえ無理だ。普段はもうそれらを直視することをやめているにすぎない。あまり見ないようにしてるが、それらを積み重ねていれば結局たまには気づかずにはいられなくなる。人間としてのいやしさが顔に出てるんだろうなあと思っては妙に納得してまた適度にごまかして過ごすにいたっているものだ。

 

自分の卑しさや醜さを殺してやりたい。私はどうやったって良い人間にはなれず、なれないことが息苦しい。悪い人間である自分でいることが驚愕すぎて、はやくやめたい。やめられない。この汚さはきっと永遠だ。人間のみんなよく生きてるよな、ほんと、どうやったらそんな生きていけるんだ、とか言いながらいくらでも誤魔化して生きちゃうのが生きるってことなのか。いつもはやくさっさと死にたい。それはただの願いだ。今日も変な顔と一緒に生きている。

最近は見にいった展示や映画などをどこかにまとめて記録するみたいなことをしていないので、今年は手帳も買っていないし、たまにはつけておいてもいいんじゃないかしらと思うけど記憶を辿るのも容易じゃないな。とりあえずツイッターくらいしか頼りにならない。ところで今日は早めに仕事から帰って来た。まだカーテンは閉めない。が、あっという間に外は暗くなりカーテンを閉める。平日なんて家にいる時間のほとんどはカーテンを閉めているわけだから、何かおかしいとも感じるな。ブリの刺身をスーパーで買ってきたのを、もう、すぐ、食べたいけど、流石にまだはやいな。

 

1月に見たもの

 

2月に見たもの

  • 2/2 冨安由真 Making All Things Equal / The Sleepwalkers@アートフロントギャラリー
  • 2/5 A GHOST STORY@阿佐ヶ谷ユジク
  • 2/8 恵比寿映像祭@東京都写真美術館
  • 2/10 ソフィ・カル 限局性激痛@原美術館 
  • 2/10 ソフィ・カル Ma mère, mon chat, mon père, dans cet ordre(私の母、私の猫、私の父、この順に)@ペロタン東京
  • 2/9 ソフィ・カル なぜなら@ギャラリー小柳
  • 2/10三宅唱+YCAM ワールドツアー@日仏会館(恵比寿映像祭)
  • 2/10 シンポジウム:トランスポジションという術をめぐって@写美
  • 2/16 Reciprocal Reliance (相互依存)@スカイザバスハウス
  • 2/20 ワイルドツアー@写美
  • 2/22 長島有里枝展 知らない言葉の花の名前記憶にない風景わたしの指には読めない本@横浜市民ギャラリーあざみ野
  • 2/22 暗くて明るいカメラーの部屋 Guest Curator 野村浩@横浜市民ギャラリーあざみ野
  • 2/23 田中功起 可傷的な歴史@ドイツ文化センター
  • 2/27 小泉明郎 私たちは未来の死者を弔う@北千住Buoy

 

3月に見たもの途中経過

  • 3/2 大岩雄典 スローアクター@駒込倉庫
  • 3/2 DOMANI@国立新美術館
  • 3/9 イン・ア・ゲームスケープヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我@ICC
  • 3/13 盆唄@シネマート新宿
  • 3/16 アートが日常を変える 福原信三の美学 Granby Workshop : The Rules of Production Shinzo Fukuhara/ASSEMBLE, THE EUGENE Studio Ⅱ@資生堂ギャラリー
  • 3/16 光るグラフィック2@G8ギャラリー

 

一応記録が残ってるもので追うとこんなもんで、落っことしてるものもあるのかもわからない。実に、ライブに全然いってない。また、映画もあまりに見にいってない。わりと頑張ってアートに寄っていた。

 

最近なぜか急にジャズを結構聞けるようになった。と思ったら他にも今まであまり興味の持てなかった日本の音楽にも興味が持てるようになってきたりした。お、まさか年をとってこんなことがあろうとはな。なぜどうしてだったか忘れたがその中でもまず気にいったのがこれ。あ、思い出した、菊池さんが選曲したジャズアルバムに入ってたんだよねこれ。なるたんならではのお仕事って感じで最高。


Bill Evans & Jim Hall Duo - Romain

apple musicがあることによってふとそういえばと思い出したような音楽を気軽に繰り返し聞けるようになった、その影響は大きい。とはいえなぜだろうか、ジャズをこんなに積極的に受け入れられるようになったのは。まあ一つ考えられるのは去年スーパーデラックスで見たONJQによる影響か。ツイッターで書いたのを自分でもよく覚えているが、あのライブで自分はようやく初めてジャズという音楽の持つフリーさというのをまさに実感したものだ。遅い、遅すぎる、なんなのそれ、、とは我ながら思うが、どうしてもジャズに対するハードルを感じていたのは確かだ。

私は主に芳垣さんを通じてジャズを聴いてきているのだが、私が芳垣さんを好きになったそもそもはROVOでありDCPRGがあり、その次にVincent AtmicusがありEmergency!があってアルタードステイツ、即興があるみたいな感じだろうか。なのでもともと率直なジャズには関わりが薄い。しかし芳垣さんの活動を追おうとすれば避けられない。Emergency!はジャズだけどアグレシッブさが強かったので17歳だった私にもかなり入りやすかったみたいなものはあるような。でもあまりライブをやらないグループなので結局はジャズは疎遠でありより不可解なイメージだけが増大。菊地さんの仕事からもあまりジャズの魅力はわからなかった。

大学に入ってからそんなに音楽を追いかけなくなり、大学卒業後はますます聞かなくなっていたが、芳垣さんをピットインに見に行くことは時々していた。特定のグループではなく、その時々で集めたメンバーなどのライブでオーネットコールマンなどをまず知る。お、良いな?と思ってCDを買った。良い、が、特別ハマるかと言ったらそれもない、というのが実態だった。良い、以上の接近の仕方がわからないといった感じ。これをどう自分に含めればいいのかわからないといった感じ。

でもそれでも嫌いにはならなかったし、むしろ芳垣さんのやってる音楽を少なからず知りたい、理解したいというのはあったのでオルケスタリブレのライブなどにも行ってみたりした。芳垣さんが時々曲名などを言ってくれるのでそれを必死に覚えたりしながら。結局私はジャズでジャズの何を聞けばいいのか、聞き方がよくわからないという感覚があったのだ。聞くことは出来る、でもどこを楽しんで聞くのかといったあたりで自分の中に確たるものがなかった。でも芳垣さんのドラムを見たい聞きたい、何が起こっているのかを知りたいという思い、まあそれが残っていたからよかったのかも。

それでまあ自分としてはやはり芳垣さんがローランドカークのあふれ出る涙をやったのが大きかったな。これは一体いつのなんのライブだったか、Emergency!の数年ぶりのライブだっただろうか。もしかしたら前にも他のライブで聞いてたかもしれないが、とにかくそれに胸打たれた。そこからローランドカークはなんか面白いぞ、となれた。でもそれでもやっぱりジャズの世界はややこしい。そう見える。それがなんか、めんどくさい。メンバー構成がよく変わるとか、時代による移り変わりとか。まあ現在進行形のジャズを追えばそんな過去のもろもろにとらわれる必要もないのかもしれないが、そうもいかず。でもなんとか少し印象が良くなる。

自分としてもどうにかジャズを知りたい気持ちはあった。どうしたら楽しめるのか?というのはあった。それを知れないと、芳垣さんの演奏をより見知る事ができないのでそれではつまらんという思いなんかも。しかし理論や歴史を追うほどの興味は持てない、それならそれでしょうがないが。そんな矢先に見れたONJQはようやくわかった!少し、わかった!つかめた!という喜びがあった。でもまあそれもほんの一瞬間のことであったとも思うけど、それでもその実感を得たのは奇跡でありこれまでなんとかわからんわからん思いながらも芳垣さんの演奏を見てきた積み重ねが、時間があったからこそだとも思える。

なぜなら、今apple musicでジャズを聞いた時に頭に浮かぶのは芳垣さんの演奏だからだ。それはなんていうか、あ、こういうシンバルの叩き方って芳垣さんもよくやってるやつだ、こういうドラムの軽さって芳垣さんがやってたやつだ、とか、大体が芳垣さんですでに見聞きしている音を思い描けるので、なんだ実はけっこう知ってる手触りじゃん?といった具合で聞けるのだ。これは、なんと、驚きの発見だった。急になぜこんな?と思うけど、こうなれるには自分にはこんだけの時間が必要だったんだろうと思う他ない。

今はとりあえず少しずつ有名どころを聞いてみてる。楽しい。理解をするにはまだまだ全然だけど、自分の中での楽しみ方はちゃんと体に入ってきているそれだけでまず十分だ。

 


Rahsaan Roland Kirk - The Inflated Tear [Live in Prague, 1967]

はやく死にたいなあと思うことが止むことはない。なぜその時はまだ訪れないのか。ずっと待ってるのに。でもずっと希望は捨ててない。3分後でも明日でも明後日でもそのときは訪れるかもしれない。ずっとそれを待ってる。でももしそれがずっと先なのなら、ずっとこの先生きてそれでも待ってるのなら、待っていられるんだろうか。はたして。

自分には、多くの人がもっているものを持つことができないといった諦めが最初からあるように思う。その最初とはまるで運命づけられてるみたいに決定事項のように身近にかんじられるものだ。だからそれは覆せない。自分たちは多様性のための存在としてあるんじゃないかとかって誰かがいった。まあそれはそうかもと思えるが、しかしわたしはどんな多様性の一部も担えていないよな?と思うとやはりただのゴミなんだなと思う。そのように即刻に自分を見捨ててしまう。そういったことを子供の頃から当然のようにしてきている。それは信念であり、救いで絶望だ。

小学生の頃、自分はだめな子どもなんだなと自認したイメージがいつからかずっと頭に浮かんでいる。そう思わずにはいられなかった、それは避けられなかった自分を鏡で写し見たイメージ。親への申し訳なさと、それを受け入れるための筋道。

みんなが持てるものをわたしも持ちたい、もってみたいと恥ずかしながらも憧れ、願うのだが、それはすぐにも待っても叶わない。だからいつも自分を納得させるために、自分にはなにもないのだから誰かやみんなと同じようになんて無理なんだから諦めなきゃいけない、それを認めなきゃいけない、それらをちゃんと自覚した人でなきゃいけない、何かを望んだってそれは自分にはかなわない、ありえない、またそのことで傷ついてはならない、平然としていないといけない、だって当然のことなんだから。

このような思考のもとで私というひとは出来ている。なんて無様なんだろうとおもいながら、それをそのまま放ってきたのもまた私だ。

それでも悲しくて寂しくなって、嘆くのだ。