便秘がひどくて昨日のんだ便秘薬がいまいち効いてこない。仕方ないからまたもう一粒のんだ。どっちの粒の効果かわからんが少しは便がでるものの、結局まだ腹はふくれている。でもそれでもマシになったようでなんとなくほっとする。いつ便秘薬が効いてくるかもわからないし、と、1日出かけない。ネットで中古で買った『きみの鳥はうたえる』のパンフと三宅唱特集のユリイカが届く。パンフはやや黄ばみがある気がするけど1400円と定価の倍の値段がした。しかしなんか内容がやたら良い。すごく気に入った。ユリイカは図書館でちょっと読んだだけですませていたが、この機会に買ってみた。数日前に劇場で見た以来で見返して、やっぱりすごくいいなと思った作品だ。染谷将太がむちゃくちゃ良いんだけど、その後見てる大河ドラマ麒麟がくるとかでもすごく良かったわけだし、染谷将太はどこでやってもほんとうに良いんだと観念するしかない。でも出てる作品がわりと多彩すぎて追えてなかったりする。しかし柄本佑石橋静河だって同じくらい良い。それぞれに良くてなやましくなる。でも私はやっぱり佐藤泰志作品で主人公に自分を重ねていくから、やはり、「僕」を演じる柄本佑の体にとくに注目してしまう。自分と特別重なるわけじゃないけど、でもそうふるまう体が、わかってしまう気がするのだ。それは痛々しくて苦い。はじまりからカメラの距離がすごく近くていいなと思う。そして道路を渡るシーン。何度も出てくるが、冒頭のふたりのそれが特徴的でつかまれる。原作を読み返したくなるも、実家に置きっぱなしだ。こないだ持っていこうかと思って、もってきてないままだ。

それからメモに書き溜めてあった去年からの日記をけっこうこっちにもってくる。ひたすらコピペ。こうやってひとつづきになると、ようやく日記らしくなる。でもなんかほんと、いまにおいてどうやっていまの日記を書けるというのか、わからないんだよな。昔とは違う。

光る君への第十一回、演出が中島由貴さんだからか、すごくよかった。色んなシーンがそれぞれに面白くて、セリフも生き生きと見てとれた。最後のまひろと道長の逢瀬のシーンも緩急がぎゅっと詰まってて、適切に気持ちのいい編集なのではないか。やはり黛さんの演出回が私は苦手なのだ。それはもう確信するしかないような。道長はぐっとおもしろくなってきた。

何日か前にBS1で見たBSスペシャソビエトハイウェイ ルート2 バルト三国という番組が初めて見知ることばかりで驚きと興味深さと。対ロシアの現在に焦点があてられている。エストニアはほとんど内容なかったけど、ラトビアリトアニアのそれぞれの歴史や事情。ロシア系の住人が多いこと、そのロシア系の人たちの主張、考え方には驚きもするけど、でもそう考えることの正当性を自分たちは持っていると考えることをどう否定できるのか。一瞬、日本と朝鮮の歴史と重ねられるだろうかとも思ったけどでもずいぶん違うとも思うしそんな安易にすることではない気もする。これはまたずいぶん不安になる話だと思った。

こういったことをもっと簡潔に書き終わりたいものだが。

今日はやたら天気が良くて、買ったばかりの青いカーディガンと青紫の上着を着て出かけるべきだと判断。昼過ぎくらいに東京近美の中平卓馬展へ。思い返せば前に横浜美術館で個展があったとき(まだ存命中か)興味はあったけど行かなかった。それはなんかこの人コワイ、などという感じがあったからではないか。確実にあった。でもそれが結局しこりのように残っていたから数年前の『なぜ、植物図鑑か』の論集を読んだのではなかったか。数年って、5年くらい前になるんだろうか。それを読んだおかげか、今回は全然コワイと思うこともなく、最近美術館行ってないけどこれは行かなくちゃいかんだろうと思って行ったくらいだ。でも最後のセクションで2000年代の青森での撮影風景の映像見たら、やっぱりなんかちょっとコワイと思うところがあった。論集を読んだとはいえほんと論集読んだだけで共に写真作品を追って見るなどはしてなかったから、そうか写真活動を始めて倒れるまでの間ってほんの10年くらいのことなんだということに驚く。でもなんかこの時代の写真表現の探究、面白かったんだろうなあと思う。雑誌などの表紙に写真が使われたとき、めちゃくちゃかっこいい。そしてなんと日記の展示があった。うおおおおおおと、どうしてもえげつなくも故人の日記の展示というものにめちゃくちゃ興奮してしまう。ノートに書いてあるものは、思いのほか字がきれいで誰でも読めそうなくらい。でもとにかく写真についての記述だった。でも私も日記のことばかり書いてたりするんだから人のこと言えないなと思う。故人の日記の扱いとは。パリのビエンナーレ参加時の展示一部再現は論集で読んでいたから、ああこれが!というのはあったけど、でもちょっともっとこれを肉薄した感じで見たい、と思う。沖縄で撮った写真もおもしろい。中上健次の文章に中平の写真という連載も迫力。しかし、こんだけ文章が書けて写真も撮って、というかそれが結託して貫かれているというのは、尋常じゃない影に覆われているみたいだ。今また論集読んだら何か違うかな?いやでも結構読むの大変だったからな、写真の話って読んだらそれなりに面白さは見出せるんだけど、苦痛もともなうからな、無理だろうな。客の入りが思ってたより良くて、老若男女いた。老寄りだったけど。でもこの先なんでもずっとそうなのか?

コレクションをざっと見て急いで有楽町へ移動。HTCでイ・ソルヒ監督の『ビニールハウス』を見る。公開2日目、ほぼ満席か。あらすじ読んだだけ、予告も見てなかった気がするけど、予想以上に刺激的で面白かった。主人公の女がビニールハウスに住むという住居による階層の提示があるけど、あまり悲壮的な感じはしない。ビニールハウスだけど、墨色のような覆いだから外と内の隔てはわりとある。でもそこはやはり農作物の畑に囲まれたビニールハウスでしかない。しかし介護をする勤め先の老夫婦からはとりあえず信頼がおかれていて車を借りて帰宅することもできる。認知症の妻の方からは妄想のような虚言などを言われてもそれはそれとしてぎりぎり受け止めているように見える。仕事の愚痴は吐かず、隠されているよう。息子が少年院に行っているためか、なにか家族や身近な人との軋轢や喪失などを抱える人々の自助グループに通いだし、そこで知り合った女にも親切にする。やめとけばいいのにとこちらは思ってしまったもんだが。でもその時も、あまりに感情が死んでいる感じがある。干からびているような。よくわからない人。でも思わぬ事故から認知症の妻をあやめてしまい、それを隠し誤魔化すために必死になり始めたとき、ようやく主人公は生きはじめるようだった。その後の展開も、取り返しがつかなくなると言ったふうにあらすじで書かれていたけど主人公以外の行動が交差してくることで取り返しもなにもないじゃんということになる。その交差がじわじわと迫っていくのも良かった。これどうするの?どうするの?とはらはらしっぱなしだった。新しく買う?借りる?高層マンションの部屋が実に韓国ドラマや映画でよく見るタイプ、作りの部屋で、その部屋で息子と暮らすということ、その憧れというか叶えというか自分がやる、することへの希求が良い描写だった。終わってみると、最初からどれもが良くできたおもしろさで、混じり合わない登場人物やシーンたちもが交差して通じ繋がっていたんだと理解できる。主演のキム・ソヒョンさんがとてもすばらしい。初めて拝見したけど、切れ切れの艶っぽさや可憐さのすきまからのぞき見えるような得体の知れぬ不可解さが見え隠れし、露出し、しかしまた隠されもするんだけどはっきりと見える意志があり、この人にはなにがあるんだろうかとめちゃくちゃ知りたくなる見逃せなさを表現していた。すごい。帰宅して感想をツイートする。

仕事が午後からになってそれじゃあと『デューン 砂の惑星 PART2』を見た。一応初日?先週から先行上映してたみたいだが。PART1のことも結構忘れてるけど、まあそもそもそんな思い入れがあるわけでもないからいいか、と軽い気持ちで。実際用語がいろいろわからなすぎたりもしたけど、なんとなく見当をつければ見れる。1後半で出てきたハビエル・バルデムがくそかっこよかったのは覚えていて、でもあれ確か結構きつく当たる奴だったはずなのに?今回はツンデレが激しいな?という役どころがおもしろい。でもとにかくかっこいいっていうか、上手いなあっていうか。最後の方の恋愛展開が古今東西どこでも良くあることとは思うけど自分としては今見ると大河ドラマの光る君へを思い出してしまう、同じような展開に見えてしまってこんなところで全く違うイメージが横入りしてくる。まあでも権力を持った男のふるまい、という構図は同じなんだもんなあ。そこに同等くらいの地位を持つ女と全く持たない女とで結ばれる関係性。しかしこの作品をいま見ればどうしても侵略する側とされる側の話で、まあそれは見たことがない私でもなんとくスターウォーズもこうゆうような内容か?と推測できるけど、でもイスラエルによるパレスチナ侵攻を思い浮かべずにはいられなかった。これを見て、興奮して楽しむというそれだけで終われるような現実ではないと、思う。

映画の後、本屋で光る君への公式本を見たら主演二人の写真とインタビューが巻頭に。しかしこの写真が、明らかに柄本佑は肌修正がすごいんではないか、異様に異様にキラツヤになっちゃってて引く。インタビューの方もインタビュアーの発言が一切ないように編集されてて、なんかきもい。嘘くさいっていうか古臭いっていうか。まだこんな感じの雑誌みたいなものがありうるんだ、と驚き。そして後ろには20回目くらいまでのかなり詳細なあらすじが書かれてて、立ち読みしてしまう。ざくっとだけど。そしたら次とその次まででまひろと道長の展開は決定的なというか、史実の方向に行くための展開になされてて、まあそうだろうと納得だけどやっぱり大石静さんの脚本って私は好きじゃないよねえと思っちゃうかも。こないだの10回でもう結構きてたわけだが。というか私が、よくある、みんなが好きらしいスタンダードで?古典的な?女と男の惹かれあい描写に対してよくわからない、そんなにグッとこない、むしろ違和感?をもっちゃうからかみ合わないのか。ふたりの廃屋での長いワンカットのシーンのセリフのやり取りはちょっと嘘くささが感じられもした。でもそれも俳優の演技でカバーされてる感じ。でもまひろが急激に説明的すぎるようで。大河ドラマはどうしても画作りが弱いように感じることが多いけど、鎌倉殿のときはそんなこともなかったような?なんかもっと映像で見せてほしい、と思ってしまうところもある。

っていうかあと『知らなくていいコト』の時も似たような展開じゃなかったか?もうあまり覚えてないから違うかもしれないけど。私はそれなら黒木華柄本佑の『先生、私の隣に座っていただけませんか?』とか朝ドラの『スカーレット』とかで見た女と男のやり取り、女のメラっとしたものが好きだし見たいんだよなあ。吉高由里子柄本佑のコンビが良いのは同意だけど、なんかもっと違う吉高由里子が見たいんだよ、そんな先読み気使い300%達成みたいなじゃなくて、とついつい思ってしまう。でも吉高由里子はほんときれいで可愛い、セリフの発し方も間も魅力的。

もう行かなくちゃという時間になり慌ててブルータスのジャズ特集号を買って会社へ。あさいさんは現場から戻ってくるのが予定より遅く、だらけてしまうのをどうにか律しながらカーマーキング用のストック作りなどをする。でも飽きる。何度でも飽きる。明日もし暇なら仕事しに来る?と言われるが、なんかもう仕事飽き飽きなので断る。来週分の現場の用意だが、間に合わないわけではないと思うし、別にいいでしょ、と、こうゆうときはある意味迷いがない。

以前にはまだ他者の欲望に刺激されて自分も、自分もと欲望していた。けれどそれもやっぱりコロナ禍で喪失したんだろうか。欲望して渇望してもそれを得られなくて絶望してたころに比べれば、最初から自分には得られないことを受け入れている方が、絶望にくれる痛々しさ、苦しさよりはマシだと思う。その方が自分ですんなり納得できるのだ。私にはそれを成し得る能力がない。私にはそれを手にする気質がない。私には無理なんだ、できないことなんだ、といった、また、「しょうがなさ」ですべてをくるんでいることが見えてくる。それはラクなことをしているかのように思えるけど、でもこの捉え方自体が私には発見であり、ここにたどり着くまでの苦しさを思えばここにたどり着けてようやく息ができるようになったというような安堵感がある。これでもってようやく私は自分が生きていることを自分で許せるようになったところがあると思う。それだけじゃないけど、ひとつとして。たねじれや矛盾があるとも思うけど。でも自分が生きていることをどう許すか、がこれを導いたのかもしれない。肯定できない自分をどう生かすか、自分のために自分を生きることができない、誰かのために生きるわけでもない、死ぬこともできない、何もない、意味などない、その状況で自分の限りある小さな小さな世界で導き出せたのが「自分には無理なんだ」ということをあらゆることに認め、受け入れていくことだったんだろう。なんかまるで、これ、書いてて、子どもの頃と同じなんだ、と思った。子供のころ、親の言う、言われる事柄をそれはどうゆうことなのかと自分なりにつじつまをつけて解釈して理解していたのと、なんかそっくりみたいだ。同じことしかできないんだなあ。

でも、自分は何も手に入れられないんだということの虚しさはあり続ける。それはそれで絶対に打ち消せないこととして、それを打ち消す術を私は導き出せてなくて、それは影のように常についてくる。それをみて、うんそうだね、そうなんだよと納得する。否定はしない。否定できない。むなしい人生なんだ、と、だからはやく死ねばいいんだと肯定できる。それでも生きていく。でもどうにも生理前の体の変化のせいでか強く不安定に傾くらしく、その時にその虚しさを受け止められなくなる。自分が虚しい存在だということに、耐えられなくなって泣いてしまう。泣いてしまうというのは、普段守られていた境がはぎ取られてしまうという感じ。外側じゃなくて、内側の皮ふがボロボロとはがれ落ちていく感じ。今までのみこめていたものが、のみこめなくなる。外側の皮ふが回復していくスピードがやたら遅いのにくらべたら口の中をやけどしてもすぐに修復されるスピードに似て一度泣いてつぶれてしまえば回復するのに時間はそんなにかからない。それは、そのことももう知っているからだ。

自分を自分であわれだと感じるむなしさも、無能だとつきつけられるむなしさも、必要とされないむなしさ、愛されないむなしさ、寂しさを感じるむなしさも、そんなことを愚かにも何度も何度もくりかえすむなしさ。みんながやっていることを自分はできない。

買ってあった上間陽子さんの『海をあげる』を読んでみることにした。でも、ああ、私にはこんな友人はいないし、結婚相手もいない。こんなに良いとされるような関係性の人は私にはいない。再婚する相手はもちろんいなくて子供もいないし、こんな母も祖父母もいない。そんなことばかり、というかそんなことしか頭についてこない。私には何もないんだということだけが露わにされるようにしか読めない。こんな状態は明らかにおかしい。こんな風にしか読めないのなら、読むのはやめた方がいい。泣くのだけはやめられないのだった。自分に誰もいないこと、誰かいたとしてもその人と関係をむすべないこと、自分のこころを開けないこと、それらは仕方ないこと、自分で選んだことだとしてもそれでもこのことが寂しくて悲しくて自分にはなにもないと結論づいてしまうのはいったいなんなんだろうなと思うところもある。こころの満たされなさ、埋まらなさ、ないという喪失感。それらを手にいれないと、生きられないのか。

私に何もないのは私がわるい人間だからなのだと、それもまた譲れない決定だ。私はどうしてもそれを手放すことはできないだろう。その前提をひっくり返すことはできない、そのできないことが私をこんなにも頑固に頑なになって絶対にはい上がってくることのないように突き落として無力に陥らせているのに、それをもうやめていいとはできない。以前はそうじゃなかったように思う。だから自分を理解するための本を探して、読んだら自分が変わることができ、そうして良い人間になれるんじゃないか、なりたいと、思っていたんじゃなかったっけ。でもどの本にも自分が知りたいこと、求めることは書いてない気がした。どれも、なんか違う。私と同じ、が見つけられない。結局私は本に載るようななにかではない。アダルトチルドレンが今まで見知った中ではもっともしっくりくる自分の見つけだった。けど最近では結局それもあまり役に立たない、自分の救いや助けにはならないんだと感じている。だからもう全部あきらめちゃって、新しく探す気持ちもないのだ。そうすると結局自分の性格が悪いだけなんだ、と思うしかなくなった。そしてそれは改善できもしないと。前は自分を変えたい、より良くなりたいと思っていたはずなのに。もう、なにに対しても変わる可能性を見なくなってしまったみたい。無気力のようだ。

もしもこうだったら、もしああしていたら、と自分のあり得たかもしれない別の生き方を想像するのは30になったあたりの頃からするようになったんだったか。最近では、もし、親に愛された、愛されていることを当然のように抱いている人生だったなら、なんてことをつい思いうかべている。そうしたら、もっとマシな人生だったように想像したがっている。末期症状かよ、と思う。愛されるなんて私にはない。子供のころのままなんだ。こころが。イメージが。理解と解釈が。醜いままでしか生きられない。こんなことを口にする醜さ。でもその醜い造形の自分がここにいるよって、時に叫びたくて仕方がないんだろうなと。この醜い存在を、どうか見てほしいって。自分でもどうしてこんなに醜いもの、塊、物(ブツ)になったのか、わからない。こんなもの、叩き壊されてしまえばいいのに。そう思うことが自分のすべきこと、自分を否定することが自分のすべきこと、それしかしちゃダメな、それ以外考えちゃダメ、という強い規定がある。それ以外を考えるのはしてはいけないという、すれば罰があるのだという。自分はみにくいのだと思えば納得できる。辻褄があうという安心感。自分の生存の許しは自分を否定すること。そんな考え方をしていたら、何もできなくなる。何もする必要がなくなる。

前なら、少し前までは。そう言わざるをえないことが増えた。年齢のせいか、コロナがあったせいか。35歳あたりから、1日1ヶ月1年の過ぎ去る速度がずいぶん速くなった。ああこれが1年があっという間とか、それはついこないだのことのようとかいうことなんだとわかるようになってきた。前ならまだそういう言い方に否定的なものを見ていた。1年はそこまであっという間じゃない、と。コロナのとき、仕事で経済的に影響を受けている人は私の周りにはほとんどいなかった。それは私の知り合いに例えば観光業やイベント業の職についている人がいないことがあった。それにしても、みんな普通に自宅で仕事をすればよくて、お金の心配、この先の仕事の心配をしてる人はいないみたいだった。みんな、私とは違うのだなあと理解した。今でもまだよくわからないけど、コロナ禍でうけた自分への影響は結構あるように感じている。その頃に感じて考えたこと、それはまた改めて自分にしょうがないを突きつけた。誰ともわかりあえないことがかきむしるようにつらかった。以前の自分にはもう戻れない。まだマシだったと思える。でも今はもうない。失くしていくばかりで、なにも残らない。

今週ずっと体調が微妙によくなかった。それは生理前だからなんだろうと思いつつ、だから何?というのがある。生理前だから不調なんだ、いつもと何か違うんだ、それで気持ちが落ちつき片づくわけではない。なんにしたって体調が悪い不安定さにごろごろとした異物のある嫌な感じに襲われている状態がある。仕方なく生理前だからなんだしょうがないんだと自分に言い聞かせるしかない。嫌な気持ちのまま、消えないまま保存して。金曜に週末にしたいことの予定が立てられていないときは不調のサインだと思う。無理に出かけなくていいのか、出かけて気晴らしができたほうがいいのか。いつもわからないけどそうゆうときは結局出かけられないことが多い。日記でも書こうかと思いながら書けない。日記を書くのがこわいと思うのは書ききれるだろうか、書ききれないんじゃないかというおそれがあるように思う。全てを書きたいと思ってしまうから。そんなの無理ってわかってるから。出かけられないことのできなさが自分に否定的な重さとしてのしかかってくる。思えば今週かもしくはもう少し前からしばらく同じようなことを頭の中でぐるぐるさせていた。自分は友達もいないし、付き合うような人もいない、もちろん結婚もないし子供もない。それでいいんだ、と受け止めて日々を送りすごしている。でも何度もそこに揺さぶりがくる。それはもう知っている。それでも結局自分には無理なんだから、と理解して納得することの適切さにのって、日々を送りすごしてきた。これからもそうだ、そのはずだ、それが自分が存在していく方法。けれどそんな考え方をしている、そう考えることでしか自分を保てないのはみじめでかなしいものだよね、という視点が後ろから差してくる。私は自分を肯定することはできない。それは自分でも驚くほどにかたくなで、それをときほどそうとするのは絶対に無理なことだ、と何年か前くらいに思った。こういった過去に自分が思い至った結論めいたものは後々まで尾を引くというか、かなり自分に決定的な答えとしての印象を残す。無理ならしょうがないんだ、と考える時の「しょうがなさ」は私をだいぶ支配しているかもしれない。しょうがない、と考えることでそのしょうがない方を変えられないからそれにならう、従うためにどうしたらいいか、という考え方をする。でも自分はそうとしか生きられないんだ、という補助線がすぐに引かれ、それを支える。日記を書けないのは、書ける自信がないから。ずっと書いてないと、ずっと考えていることにとらわれ続ける。