平穏な日々が一番なのだと思う。そすれば家族は私におびえないで済む。気を使わないで済む。私も気をつかわれないで済んで、いくらか平坦に毎日というのを過ごせる。何も余計な気配りはいらない。さぐるような素振りも必要ない。私の機嫌が傾いていくと、家全体がひび割れしてって傾いていってしまう。少なくとも私は家という世界が壊れていくのを体感する。家という箱が壊れるというのは、予想以上に生きてる世界の破たんをきたすように感じる。頭がい骨がミシミシと軋む感覚がする。壊れるという感覚がすごくする。そして壊れるという感覚がどれだけのおそれの感覚を生むかを知る。

平穏が一番なんだ。みんなそれで幸せになる。いらない気持ちを使うことはない。仕事、食べる、寝る、生活する、そんな平穏が一番だ。それをぶち壊す私はこの家では異端者だ。暴力と同じだ。私が平穏であればいい、それだけのこと。おかしいことにならなければいい。そうしたらこの家の人たちはしあわせにいられる。

でも私は平穏があると不安になるし、それは一時のものに過ぎないと疑わずにはいられない。平穏はうそで、きまぐれで、幻想のようなものに思える。いつかまた裏切る時が来る。平穏の方がおぞましい気がする。そこにはもっと本当のおそれが渦を巻いている気がする。盲目になっている時の方が楽な心地なんじゃないかとさえ思う。

平穏は冷静の感じなので冷静にあれへんだな?と思う。特にわめきだつ感情がない。へらへらへら〜っと陽が昇って沈むことを流すことができる。それもそれでまっとうではないかもしれないけど今の私の生活ではまっとうとする。それが続いているときは無感動になっている感じ。自分の中に躍動感を感じない。それでいいのかもしれないが。なんとなく違和感を感じるけれど、それもまたへらへら〜っと流れていく。流れを眺められる。

でもそれが続いているとどっかで妙なつっかかりに出会う。何かの出来事や何かへの感情もなにもないはずのまま、どあーと滝からおっこちるようにして泣く。それはなんのために泣いているのか、実体がない。ただなんとなく総体的なものに泣いている感じがする。今まで散々すべてに理屈をつなげて言いへつらってきたものがぜんぶ無にかえっていく感じになる。すべての意味が剥がれおちてみんな流されていってしまう。そこには単純なものが残ってるような気がする。ちぐはぐなばらばらな物事のすべてをまとめうる、単純な気持ち、思いというのがそこには残される感じがする。それだけが本当の真実のようなもの。

でもそれは姿を現さない。あるように思えても、すぐに扉が閉ざされてしまって、なかったことのようにされてしまう。それはあまりにも単純で素直なものだから、見ちゃいけないものの感じがある。たぶんそれは出してはいけない。人の目に触れてはならないもの。誰かに触れられればそれはすぐに簡単に壊れてしまうかもしれない。わからない、そこは可能性の世界でしかない。だからそれは閉まっておかなくちゃならない。あまりに単純で素直なものは人に理解されないと思う。たくさんたくさんあちこちから理屈を取ってくっつけて色んなものを含んだようなものに見せないと、披露することはできない。単純なものは簡単にあしらわれるかもしれない。ていうか私に単純さがないのかもしれない。

人は何だって受け入れ可能で理解可能で解決できる物事と考えるかもしれない。それはね、これはね、と自分の経験や一般論にあてはめて道を示すことができるものと思うかもしれない。でも私はそうゆうものに反発感を覚えてしまう。わからない、私の感じ方が間違っているのかもしれない。


昔のことを思い出すと、イメージが再生されると私は泣いてしまう。とてもくだらない。現在を生活していく上ではまったく必要のないもの。それを再生して生活する意味はない。それなのに勝手に再生ボタンは押されている。私はそれを見てしまう。それは言ってしまえば、結果論でいえば悲しくて泣いているのかもしれない。でも私はそう捉えられない。ただその時の感情が、同じ感情が体に注入されて、それを体感して泣いている感じなだけ。そこには辛いとか苦しいとかの感情の言葉がない。後付けしたらそれは言葉であてはめられるけど、あまり存在の余地がない。それは考えてみると漠然とした痛みのような感覚のものかもしれないと思い当った。痛みとしての感覚が意識に上らない痛み、みたいなもの。そうそこは本当に言葉のない世界だなあ。

私はずっとその当時のことが自分にとって大きな変わり目のようなものとして存在してることを認識してきた。ただそれが具体的にどんなものであったということを認識したことはないなあと思う。というかずっと分からないままでいると思う。その出来事は見方によって良いとも悪いともいえる。けれど私は良いとは言えない、言ってはいけない気がしている。例えばそれを悪くはあったけど良かった、と言える所に立てたらいいかもしれない。そうゆうものだったこと、として捉えられる。

実際の私はそれを悪かったこととして捉えてる面はあるけれど、結局それは過去のことだしそれで過ごしちゃったし更に現在までがあるとなると、悪だけで処理するには無理がある気がする。なので未だにそれは不可解なものとしての立ち位置でしかないのかも。それは善か悪かと言えば悪なかんじだけど完全悪とは言い切れないようなもじゃもじゃ…じゃあ悪じゃなければなんなのか、なんなのかわからなきゃほっとけばいいけど常にイメージが入りこんでくるからそう無視はできない、それで結局正体不明のものに振り回されてる。っていうようなことかな。いやいやこんなしょうもないことを出してどうする。たぶんここに回答は必要ない。


最近ぼやぼや思うに、子どもの頃からの気質や性格の基本軸としてあったものが、16.7歳のときでより枝葉を増やして育って行った感じかなーと。子供の頃からのものはべつにそのまますんなりいってりゃそのまま性格のようなものとして片づけられるものだったかもしれない。

ふっと冷静に自分を自分で見て悲しくなることがある。自分で自分を死ななくちゃいけない人間だと考え信じてるなんて、うわーすごいかなしかなしいなーとすっごく悲しい気持ちにやられる。悲しくて自分でなく。自分で生み出した考えにすぎないのだけど、そこにはそれを生み出さずにはいられないものがあったとは思う。何かはわからない。でも私はそこでそう考えなきゃいけなかった。好きで考えだしたんじゃない。わざとそれを信じてるんじゃない。無理やりそこにいるんじゃない。そうあらざるをえない、そうあることでしかいられない。けどこうゆうのはあんまり人に理解されないかも。とりあえずされない。

どうにも意固地で変えようのない考えは無理に捨てることはなく、捨てられないのだからそれを持ったまま生きるしかないかもしれない。けれど私にはそれに拒否感を覚えてしまう。それは本当に可能だろうか。今までの少ない年数の中でもそれは苦痛に思えた。それがあるから全てがダメに思えた。それのまま生きる道はないように思える。そうとしか見えない。他の景色が見えない。そうやって他の景色が見えないというのはとんでもな絶望の波に呑まれる。