以前にはまだ他者の欲望に刺激されて自分も、自分もと欲望していた。けれどそれもやっぱりコロナ禍で喪失したんだろうか。欲望して渇望してもそれを得られなくて絶望してたころに比べれば、最初から自分には得られないことを受け入れている方が、絶望にくれる痛々しさ、苦しさよりはマシだと思う。その方が自分ですんなり納得できるのだ。私にはそれを成し得る能力がない。私にはそれを手にする気質がない。私には無理なんだ、できないことなんだ、といった、また、「しょうがなさ」ですべてをくるんでいることが見えてくる。それはラクなことをしているかのように思えるけど、でもこの捉え方自体が私には発見であり、ここにたどり着くまでの苦しさを思えばここにたどり着けてようやく息ができるようになったというような安堵感がある。これでもってようやく私は自分が生きていることを自分で許せるようになったところがあると思う。それだけじゃないけど、ひとつとして。たねじれや矛盾があるとも思うけど。でも自分が生きていることをどう許すか、がこれを導いたのかもしれない。肯定できない自分をどう生かすか、自分のために自分を生きることができない、誰かのために生きるわけでもない、死ぬこともできない、何もない、意味などない、その状況で自分の限りある小さな小さな世界で導き出せたのが「自分には無理なんだ」ということをあらゆることに認め、受け入れていくことだったんだろう。なんかまるで、これ、書いてて、子どもの頃と同じなんだ、と思った。子供のころ、親の言う、言われる事柄をそれはどうゆうことなのかと自分なりにつじつまをつけて解釈して理解していたのと、なんかそっくりみたいだ。同じことしかできないんだなあ。

でも、自分は何も手に入れられないんだということの虚しさはあり続ける。それはそれで絶対に打ち消せないこととして、それを打ち消す術を私は導き出せてなくて、それは影のように常についてくる。それをみて、うんそうだね、そうなんだよと納得する。否定はしない。否定できない。むなしい人生なんだ、と、だからはやく死ねばいいんだと肯定できる。それでも生きていく。でもどうにも生理前の体の変化のせいでか強く不安定に傾くらしく、その時にその虚しさを受け止められなくなる。自分が虚しい存在だということに、耐えられなくなって泣いてしまう。泣いてしまうというのは、普段守られていた境がはぎ取られてしまうという感じ。外側じゃなくて、内側の皮ふがボロボロとはがれ落ちていく感じ。今までのみこめていたものが、のみこめなくなる。外側の皮ふが回復していくスピードがやたら遅いのにくらべたら口の中をやけどしてもすぐに修復されるスピードに似て一度泣いてつぶれてしまえば回復するのに時間はそんなにかからない。それは、そのことももう知っているからだ。

自分を自分であわれだと感じるむなしさも、無能だとつきつけられるむなしさも、必要とされないむなしさ、愛されないむなしさ、寂しさを感じるむなしさも、そんなことを愚かにも何度も何度もくりかえすむなしさ。みんながやっていることを自分はできない。

買ってあった上間陽子さんの『海をあげる』を読んでみることにした。でも、ああ、私にはこんな友人はいないし、結婚相手もいない。こんなに良いとされるような関係性の人は私にはいない。再婚する相手はもちろんいなくて子供もいないし、こんな母も祖父母もいない。そんなことばかり、というかそんなことしか頭についてこない。私には何もないんだということだけが露わにされるようにしか読めない。こんな状態は明らかにおかしい。こんな風にしか読めないのなら、読むのはやめた方がいい。泣くのだけはやめられないのだった。自分に誰もいないこと、誰かいたとしてもその人と関係をむすべないこと、自分のこころを開けないこと、それらは仕方ないこと、自分で選んだことだとしてもそれでもこのことが寂しくて悲しくて自分にはなにもないと結論づいてしまうのはいったいなんなんだろうなと思うところもある。こころの満たされなさ、埋まらなさ、ないという喪失感。それらを手にいれないと、生きられないのか。

私に何もないのは私がわるい人間だからなのだと、それもまた譲れない決定だ。私はどうしてもそれを手放すことはできないだろう。その前提をひっくり返すことはできない、そのできないことが私をこんなにも頑固に頑なになって絶対にはい上がってくることのないように突き落として無力に陥らせているのに、それをもうやめていいとはできない。以前はそうじゃなかったように思う。だから自分を理解するための本を探して、読んだら自分が変わることができ、そうして良い人間になれるんじゃないか、なりたいと、思っていたんじゃなかったっけ。でもどの本にも自分が知りたいこと、求めることは書いてない気がした。どれも、なんか違う。私と同じ、が見つけられない。結局私は本に載るようななにかではない。アダルトチルドレンが今まで見知った中ではもっともしっくりくる自分の見つけだった。けど最近では結局それもあまり役に立たない、自分の救いや助けにはならないんだと感じている。だからもう全部あきらめちゃって、新しく探す気持ちもないのだ。そうすると結局自分の性格が悪いだけなんだ、と思うしかなくなった。そしてそれは改善できもしないと。前は自分を変えたい、より良くなりたいと思っていたはずなのに。もう、なにに対しても変わる可能性を見なくなってしまったみたい。無気力のようだ。

もしもこうだったら、もしああしていたら、と自分のあり得たかもしれない別の生き方を想像するのは30になったあたりの頃からするようになったんだったか。最近では、もし、親に愛された、愛されていることを当然のように抱いている人生だったなら、なんてことをつい思いうかべている。そうしたら、もっとマシな人生だったように想像したがっている。末期症状かよ、と思う。愛されるなんて私にはない。子供のころのままなんだ。こころが。イメージが。理解と解釈が。醜いままでしか生きられない。こんなことを口にする醜さ。でもその醜い造形の自分がここにいるよって、時に叫びたくて仕方がないんだろうなと。この醜い存在を、どうか見てほしいって。自分でもどうしてこんなに醜いもの、塊、物(ブツ)になったのか、わからない。こんなもの、叩き壊されてしまえばいいのに。そう思うことが自分のすべきこと、自分を否定することが自分のすべきこと、それしかしちゃダメな、それ以外考えちゃダメ、という強い規定がある。それ以外を考えるのはしてはいけないという、すれば罰があるのだという。自分はみにくいのだと思えば納得できる。辻褄があうという安心感。自分の生存の許しは自分を否定すること。そんな考え方をしていたら、何もできなくなる。何もする必要がなくなる。

前なら、少し前までは。そう言わざるをえないことが増えた。年齢のせいか、コロナがあったせいか。35歳あたりから、1日1ヶ月1年の過ぎ去る速度がずいぶん速くなった。ああこれが1年があっという間とか、それはついこないだのことのようとかいうことなんだとわかるようになってきた。前ならまだそういう言い方に否定的なものを見ていた。1年はそこまであっという間じゃない、と。コロナのとき、仕事で経済的に影響を受けている人は私の周りにはほとんどいなかった。それは私の知り合いに例えば観光業やイベント業の職についている人がいないことがあった。それにしても、みんな普通に自宅で仕事をすればよくて、お金の心配、この先の仕事の心配をしてる人はいないみたいだった。みんな、私とは違うのだなあと理解した。今でもまだよくわからないけど、コロナ禍でうけた自分への影響は結構あるように感じている。その頃に感じて考えたこと、それはまた改めて自分にしょうがないを突きつけた。誰ともわかりあえないことがかきむしるようにつらかった。以前の自分にはもう戻れない。まだマシだったと思える。でも今はもうない。失くしていくばかりで、なにも残らない。