液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

最近はひとりで部屋にいると泣き出してしまう。その理由みたいなものはあまりはっきりとなくて、自分でもなんで泣くのかよくわからない。でも泣きたいのはわかるのだ。私は泣かないといられないのだということは、わかっている。

 

子どもの頃から、自分に不釣り合いなことは思ってはいけないと思っていた。不相応なことをイメージしてはいけないと、みずから禁止していた。それを必死で覆い隠して抑圧するために思ってきた。

自分には結婚なんて無理だ、ウエディングドレスなんて真っ白できらびやかなもの、私に似合うはずがないし着てはいけないもので、私みたいな人間が子どもを持ってはいけないんだと、自分で答えを導き出していた。それはいつだか思い出せないくらい子どもの頃からのことだ。

その解をひとりで見つけひとりで決めてひとりで信じてきた、それが私の守るべき信条だと。だから、もうずっとずっと、そう思ってきた。そう思うことは自然で、決められていること、かのように。

 

そして今になって、そう信じてきたことはそのまま現在までの真実、実際になっているのだと、ようやく気づく。自分に恋人ができなきのも、付き合ってもすぐ別れてしまうのも、人との出会いを積極的に求めないのも、結婚への過程がまっさらなのも、それは自分が子どもの頃から自分はそれらと無縁であるはず、あらねばならないと思い描いてきているからなのだろう。

それなのにふいに自分も幸せになりたい、好きな人と思い合って結婚したり子どもをもってみたりしたいと浮かれ思っても、それらはやってこないのだと、気づかされる。

 

それは結婚し出産する友人たちを見ていて、彼女たちは学生の頃から結婚することや出産することに対してポジティブな、というか、そうしたいのだという意思をイメージを持っていた、ということで気づかされたともいえる。もちろん誰しもが単純にそのルールにのっとるわけじゃないだろうけど、それでも、それは十分に現実的な実際的なことだと思える。

自分が思い描く夢や希望、したいことを実現させたいとこころのなかで思い描いていればこそできるものごとというのはあるだろう。願いをかなえることは自然と行動や思いとしてあらわれるものだろう。

そうか、私にはまずそれらがなかったではないか、と思う。ないのに、むしろ否定してきているのに、それが身体としてあらわれる、思いから身体へあふれでるということはあるわけがないのだと気づいた。そうか、そうだよな、と妙に納得してしまう。 

 

そして、それを思っては涙が眼球を覆ってしまうのだ。なぜ私はそんな風に思わねばならなかったのだろう。私はどうしてそんな風に思うことにしてしまったんだろう。なぜ、そんな風に思うことでしか生きられなかったのか。そんな風に思わずにいられたら、それは。

これはいったいなんなんだろう。むなしさ?かなしさ?うらみ?こうかい?ただ、私はこうゆう人間なのだとつきつけられ、どうしようもなく、手も届かない壁を前に仰向けになってしまう。

 

お前は幸せにはなれないのだと烙印を押されているのか、押したのは自分なのか。この自分の中にある矛盾。その矛盾にはとっくの前から気づいている。あまりにわかりやすく目の前に現れているものだ。

思っていることと、口に出ることはかけ離れている。本当に言いたいことと、行動で見せているものはまるで正反対だ。けれども他者にとっての本当は目に見え聞こえているものに過ぎない。私の中にある本当なんて、それは本当でもなんでもない、ないものだ。その剥離が私には息苦しい。ずっとそれに苦しんでいるのかと思うと、もう本当にずっと自分は子供のままなのだ。

 

私が心のどこかで何かを願い、誰かを待っているとするならば、それは、私が思ってることをそのまま言えて、伝えられて、その本当という恥ずかしさに満ちた自分の小ささや卑屈ささえも、うんそうだねと受け止めてくれるようなもの?人?なのではないだろうか。なんて、なんてなんてありきたりで傲慢な夢だろうか。そんな人はいないだろうと思うけど、それでも、それなのにありえるかもしれないいつかどこか何かを同時に想像せずにいられないというのは、つまり結局夢を見すぎているんだろうか。ずっと。ずっと見ているんだろうか。そのことが、こわくなる。