同性には(この場合、女)共感することできることの繋がりを感じて、異性には(この場合、男)自分とは違うということに面白みを感じるのかな、とか考える。男性で同じだーの見方や意見になっても強い共感みたいのはそんなに感じないような気がして。あ、そうなんだーくらいのテンション。そもそもそれでもどうせ違うだろう前提なのか。それより自分のもってない違う方が興味深くておもしろい。でも女性の場合はこの人ぜんぜん私と違うわになると線引きが潔くひかれる感じがする。そして共感をもちえる人とはそれをどんどんつめていく、つめていける感じでそれによって深まる感じ。

同性異性に求めるもの、自分が提供するものはそれぞれに違うと思う。私自身が求めるものも、求めてほしいものも違うわけだ。どちらも必要だと思う。わかんないけど、そうできてるのかなって。どちらか一方だけでは足りなさを感じるのではないか。傾きが生じてしまうのでは。まあだからってそれがいいって言えるわけでもないか。

でも私はいっつも無いものねだり。


先週会った彼らに自分を重ねられるというのは、単純にその彼らの状況と自分が似た、だぶる状況だからっていうのが大きいのかも、単純に。どうだろう。2人はひとりが私と同じく実家、もうひとりは実家のすぐ近くで一人暮らしをしているという。この年になるとやっぱりけっこう家を出て暮らしてる人は多い気がする。でも私は実家暮らしは合理的で一人暮らしするよりお金もういて人と暮らすことの気構えもできて、悪くないもんだと思っている。誰かと暮らすというのは合理的であると思っている。でも一人暮らしは楽で自由があったりする。だから家を出てる人たちの気持ちはわかるし、少しの羨ましさだってある。でも一人暮らしの経済性ってどうなのよと。
そんななか自分と同じ、近い生活環境でいるというのはぐっと寄れるものがあるよなあ、考えてみれば。その生活の基盤が違うだけでだってずいぶん違う。そんなんあって、彼らに自分を重ねられたのかなあ。どこかで、30になっても実家暮らしというのは少数派で自立してない立場を負わされるような気がしているところはある。少なからずあるのだ。自分は間違ったことはしていないと思ってる、それでも。そうゆうところを、同じようにしている人がいることでほっとして、救われるんだろうと思う。その生き方は間違ってるわけではないと、そんなんは特別こだわることでなく、暮らし方はいろいろそれぞれあるよねってとこに引き戻してくれたんだろう。
自分一人ではないかということはやっぱり不安なんだなあ。