引越しがなんとかおわった、日記を書かなきゃ、書きたいと思いながら書ける余裕がなく、1日ずつ書きたいところも書けない、書く気力がない。引越しにどんぴしゃ生理が重なってつらいことこのうえない。なにがつらいのかわからなくなるくらいには。つらいしこわい。ひとり暮らしは内心すごくこわい。金曜日、ああやっぱりすごくこわいって思ってた。もうその前々からうすうすわかってたけど、はっきり思えた。生理直前で不安定なものが働きかけてるんだ、と思ってもそれでもその感情に間違いはない。ただとりあえずその状態はつらく、しかしそれでいて私は私を守るために実家を出ていなくちゃいけないと思うのだった。実家にいる安寧はある。鉄筋コンクリートでできている家という構造物そのもののどっしりとした揺らぎなさ、あれは鉄骨や木造の家に住む体感とまるで違うものなのだ。妙に高く感じられる天井。冷蔵庫や戸棚には常に何かが詰まっている。自分がやらなくても誰かがやるし、誰かがやる前に自分がやる。はやく慣れればいいと思う。新しい部屋、新しい街での暮らしに、ひとり暮らしに。歳をとってきて、どんどん自分は弱くなってきてるように思う。老化とはまた違う側面で、もろさがむき出しになってきているような。がんばれない。ひとりで暮らしていくのはやはり大変だから一緒に暮らせる人を探したい。でもそんなことできるのか?とも思う。でもひとりで家というものを構成させる自信がないな。なんかプレッシャーが多すぎ強すぎてつらい。私は恐怖で死ぬんじゃないかと思うな。部屋は前より広くなってうれしいけど変な感じ。コロナどうなるんだろうな、これから。俳優の三浦春馬が亡くなったという話、どうしても自殺というのを聞いてしまうと私ならえりちゃんの死んだ時のことを思い出さずにいられなく、それはきっと身近な人が自殺した人にとっては誰しもそうなんじゃないかって気がする。だから母親が自殺した友人や、兄が自殺した友人、恋人が自殺した友人を思い出し、母や父も同じようにえりちゃんが死んだ時の一連のことを頭に思い浮かべているだろうか?と思わざるをえないのだった。でもツイッターなんか見ると気持ち悪い。自分の思いたいように思ってるだけなのに、さも思いやってるかのように書いている人々。なぜどうしてなんて、いくら考えたってわからない。遺書があってもそれでもなぜどうしての問いはやめられない。わからないことだらけでしかない。なにもわからないし、わかることなんてできなかった。人はみんな孤独なのだ、孤独でしかあり得ない。その孤独をどう生かすかはそれぞれにある。自殺した人は自殺することができる人なのだった。それしかわからない。それほどに死にたかったんだと思うと、私は自ら死んだ人のその選択は尊重したいと思う。そう思うことしかできないと思ってしまう。でも全てに本当に同じようにそう言えるかといえばそうでもないとも思う。たとえば若い人。えりちゃんもはたちにならなかったが。少しまえにあった韓国の女性のアイドルの人が自殺する直前だかのインスタライブだったか、それを見たとき自分のなかで更新されるものがあった。どんなにきれいな顔をして、恵まれたルックスや身体能力があって様々な人に出会っていてもお金があってもそれらが救いになることはなく人のこころはつぶされていく。それらはそれらでしかない。それらは本人にとって他人が羨ましがるほどの価値はないのではと思う。でも一般人の私たちは持てる人たちをうらやむだろう、それって一体なんなんだろうねと思う。死にたかったのか、死にたかったんだと思うと、死ぬことが悪いことだなんて言えない。悪さとして基準をはかれることでもない。私たちは失う。生きている者と死んでいる者は、違う。