ああやっぱり私は実家にいてはいけないと思う。情けなくて悲しいが、顎がふるえる自分をお風呂場の鏡で確認して改めてはっきりとそう確信する。悲しさであり怒りであり虚しさであり、自分自身への不信感だ。昨日寝る前に癌になって治療しないという選択肢はどうゆうことになるのか調べていた。私は癌になったら治療せずに時間の経過で死にたいと思っている。癌になってそれではやく死ねたらいいのにということは無防備にずっと思っていることだ。でもそんなことを希望しているようなもののところに癌は来ないのかもしれない、だから願ってないフリをしてなくちゃ、とか思いながら夢見ずにいられないのだった。どこかで自殺するとして、結局その場所に迷惑をかけるのかと思うとうんざりする。だから生きるしかない。私はなぜはやく死にたいのだろうということを考えないこともない。でもそれを考えてしまうと生きること、生きていく上で選択し思想し行動していることが台無しになる。生きるなら生きねばならず生き方を考えなくてはならない。私はなんとか生きている。生きている必要もないけれど、生きてるからには生きている。でもはやく死にたいと思っていることはやっぱりそれらをすべて打ち消してしまうのだ。私がはやく死にたいと思うのは、つらいからだ。自分は自分のいるこの場所に適応しないと思える。自分という異物感が気持ち悪い。最初からなければよかった。私は存在したくないのに存在している。死にたいのに生きる。それは背中合わせで成立する。自分を肯定しようと思う。けれどそれはもろい。私はかわいそうなみじめな人なのか?と思うのは、私が自らそう思っている証拠だ。誰かから思われることじゃない。私が私をみじめだと否定することをやめられない。自分にも他人にも、自分を説明するのにあらゆる否定の語彙を考え用意をしてきた。どの言い方が適切かを何度も推敲さえする。誰になにを言われたって答えられるように、思ってもいないことをさも前々から思っていることかのように言うのだ。それが理由になり私になる。それで私は誰かに許されたいのか?私ははやく死にたいだけで、でもそんなことを口にするのは良くないこと、人に聞かせたりなんてするのは良くないこと、それはそれでわかるが、それでもやっぱり私ははやく死にたいと思っているのだった。どうしてはやく死にたいと思うのは悪いことなんだろう。口にしてはいけないの?ただそれを肯定してくれたらいいのに。はやく死にたいと思うことはどうしてこんなに苦しいのだろう。