また相変わらず毎日のように頭痛がやってくる。頭痛がしていないことの方がめずらしく、貴重で、毎日のリズムからずれている。精神的にまいりはじめてるのがなんとなくわかる。いけないいけない、どうにか前向きになろうとしなきゃいけない、なんでもいいから明るくならなきゃいけない、強制ではなく、自然に、できる範囲で、なんてことないんだからと軽く思っていられるようでいなくちゃ、それでいいんだから、と思うのに、効果がない。自分の気持ちが、気力が、あがらなくなってきている。顔の筋肉が動かなくなってきている。なにかをしようとすれば全部うそになる。はじめてのことじゃない。でもはじめてだと言える。なんだかやばい感じがあり、漠然とした不安とはまさにこんなんを指せるのだろうと思い、うつの状態に近づいていってしまいそうだと思う。経営者でもないのに死ぬのはおかしいんだろうかと思いながら、自分が生きてる必要はなにもないことがむきだしになって自分のなかで華々しく咲いてしまう。ただそれだけの存在になってしまう。自分の身体もよく感じられない。生きてなくちゃいけない理由はなにひとつないのに生きてることが解けようのないミステリーとして眼のまえできらきらしている。よくもそれで生きている。死ぬことはいつだって許されているのに死なないことを選んでいる、そのありようの間違いに自分がさらされる。いつだって死ぬべきだ。でも今はなんかもう死にたいと思う気力すらないみたいだ。なにもなくなっていくみたい。なにもしたくない。もうずっと眠っていたい。本当はただはやく死にたいだけなのに、嘘をついて生きていくのはいやだ。嘘をついてでしか生きていけない、そのことがときどきすごくみじめで、それは言ってはいけないという抑圧は正しさなのか虚偽なのか、わからなくなる。私はみんなとなにが違う?なにがおかしい?20代のころ、私は本気で必死に自分はねじが何本か足りないのだと思っていた。そう思うことはとても真実味があった。そう思えば筋が通る気がして、それならと納得することができた。今の私はその頃の私を思うと痛々しく可哀想な人だと思ってしまう。そう思ってまでして生きてきた。私みたいな悪い子供で親は可哀想だと思うと私みたいなのが子供を産んだらやばいんだろうと思ったのは小学生の頃だったか中学生になった頃だったか。私が私みたいな子供を産んだらキツいんだろうと思ったのはつまり悪の再生産への懸念だった。その考えに筋を通すには自分が結婚したいと思うなんてあってはならず、ウエディングドレスが着たいだなんて簡単に口にしてはいけない、私が着たら不細工があらわになりすぎて汚すぎるという危機感を覚え、それは決して口にしてはいけないと思ったから、だから私はウエディングドレスなんて着たくないと言わなければいけないと思った。それが原始的な私の考えなのだ、として。私は自分からつつしんでいますよ、という態度を表明していないと恥ずかしいのだと思っていた。それはあとづけにすぎないのに、まるでそれが最初から自分の指向であるかのように自分を錯覚させていたんだなと思う。私はそれに従順であった。そう思うと私の思考には同じ形式のものがよくある。私が言ってることはだからだいたい嘘で、ほんとはそんなこと思いたくて思ってるわけではなくて、自分をあざむいて、そう思わざるを得ないからそう思わせているんだけれど気づけば嘘は嘘ではなくなって自分でもそれが自らの意思で出してる答えなのだと信じてしまう。それがまた自分のよりどころになる。だから崩せない。でも嘘としてもろい。でも一度自分の口にしたことは守らねばならないと思う。そのことに誠実にあらねばと思う。そのことに矛盾やゆらぎが出ないように、強い信仰をもっていなければいけないと思う。そうまでして生きてる自分が急に保てなくなる。