f:id:qyu:20200730011236j:image

これまで昼夜逆転生活みたいのにはなったことがほぼなくて、自分でもずっと不思議だったけど、次第に、としをとってきたせいもあるのか、昼間にもよく眠れるようになってきたし、なんならずっと眠っていたいと思い、眠りに逃げたいと思うようにもなった。夜更かしがもともと苦手だからできないのかなとは思っていたけど、でも昼間に起きていたくない気持ちによって昼間に寝て、夜に起きている方が昼に起きているよりはよっぽどマシで安らかなんだというのはうすうすわかってきた。だから昼夜逆転をするのかなと思うとそれはすごく意識的にやることだったのかとよくやくわかる。故意になるものではなく、自らそうすることなんだ。もう仕事にも全然行きたくないし出かけたくもない。それらは無理して行われなければならない。もうなにかに正されるのもいやだ。ここまで書いてたのが朝。昨日夕飯食べてないからおなかはすいてるけど食べようとすることさえ面倒でなにもできないと思っていたけど、そうだマルモイは新宿で見るなら昼間しかやってないんだったと気づいて時間調べたら12時からの回がある、11時に出れば間に合うとしてこのとき10時、急いでシャワー浴びてパン食べて用意して出かけた。電車のなかからチケット予約しようと思ったらもう締め切られていた。まあ平日だし混んではいないだろうと思いつつ。シネマートに行くのはすごく久しぶり。ヒューマントラスト系列の会員カードが使えるから木曜日で1100円なのが嬉しい。シネマートは韓国映画いっぱいやってるから見にきたいと思いつつ来れてない、でも雰囲気良いからここで見たほうが楽しいのかもしれない。悪人伝ももう見ちゃったけど。「マルモイ ことばあつめ」ってタイトルだけどそのままハングル読みに日本語訳がつづいてるんだな。マルがことば、モイがあつめる。主演の俳優さん、ふだんなら脇役をやりこなしてそうなクセの強い顔立ちで、あれ絶対見たことある人だよな?と思ってたら途中でタクシー運転手に出てた人、ユ・ヘジンだと気づく。でもそれ以外でも見てるんじゃないかと思うくらいものすごく印象の強い、インパクトのある存在感だ。タクシー運転手の脚本家の方が脚本、監督をしてるというくらいの情報しかわかってなかったが、なるほど全体の話の流れもタクシー運転手と通じている。それは手法として同じでありながら、そのなかで登場人物たちがいかに動き、躍動するのかでもちろん全然違う映画になることのおもしろさがある。タクシー運転手と同じように愛してやまない子供を育て生活するのに手一杯だがそのためになら無茶やら手荒なマネやらに手を出してどうにか日々の稼ぎを得ている男性がひょんなことからそれまで全く縁もなく知らなかった事実や世界、それは自らの住む国そのものに出会い、そこで生きる人々に出会い、疑り悩みながらも人々との関わりや交流を持つことで自らもが勇気ある行動を起こしていく。愛の不時着でもそうだったけど、口が悪くて態度もでかくてお調子者って感じででも親しい仲には愛情深くてニクめない、という男性キャラクターは韓国では定番なんだろうか。口が悪いんだけどお茶目、みたいなのは日本でもないことはないけど多くはないような?団らん的なコミュニティの愛情深さみたいな描写がよくあるのは日本とは全然違ってておもしろい。それは決して血縁ってわけでもないのにだ。しかし同じ戦時中という時代で語るにしても全然違う風景、状況が朝鮮にはあったのだということがびしびしととても痛くてつらい。日本でも日本のきびしさはあったわけだしそれらは色んな映像、ドラマや映画で見てるわけだけどそれが朝鮮であったときどうだったのか、というのを朝鮮からの視点で描かれたものを見るのはあまりない経験だ。色々な学びもあって自分の無知っぷりにはずかしくなったりもする。愛の不時着を見てて、日本語と同じ発音をしてるのかな?と思う単語が出てくることがときどき?、よく?、あった。なんでなんだろうな?たまたま?とか思ってたけど、いやいや日本が日本語を強いてたからそれが影響として残ってしまったってことなのでは、とこの作品を見てたら想像がつきはじめる。そんなこと知ってる人からしたら当然のことなんだろうし、日本語が強要されてたということは知っててもそれが実際いかにどうゆうことなのかをこの作品で目に耳にしてはじめてそのつらさが、日本の行いのおろかさがわかって、何かを知ってることが本当にわかっているかどうかとはまた隔たりがあるものなんだとわかる。愛の不時着の北朝鮮の村の人民班長役をやってたキム・ソニョンも朝鮮語学会のメンバーとして出演していたので、あ!となった。着ている服装が時代が違うから当然違う、マルモイではチマチョゴリ着てるからまたぜんぜん違う雰囲気だということも面白かった。映画館があったり路面電車が通ってたりする街並みは日本の感じとすごく似てるなと思ったけど、そうゆうのもやっぱり日本の影響がもろにあるとかなんだろうか。でもすごく良い雰囲気の美術セットだなあと思った。見終えて、なんとなく「金子文子と朴烈」をまた見たいなと思ってたら朝鮮語学会メンバーの一番若手の役の人がそっちにも出てる人だった。他にも子役の子たちもすごく良かったし、貧しさが絶対的にあるんだけど、なんかそっちの哀れみに引っ張られすぎはしないというところが救いでもあって。表立って何かを成し遂げた、という人物じゃなくきっとどこかに、そこかしこにいたんじゃないかと思わされる群像の姿があるのも良い。2時間15分があっという間だったなー。この時代、日本、日本人が一体どういう思考で、視線で世界や世間を見ていたのかということを知ろうとしないといけないのかも知れない。という感じで韓国映画、ドラマにずるずるひこずり込まれる流れ。少しお腹がすいたからフレッシュネスバーガーでホットドッグを食べる。あれ?なくなってないよな?と思いながら行ったらそうか改装してたんだなと思う。新宿3丁目のあたりで一人で何か食べるといったら大抵ここに来る。KEN NAKAHASHIに行きたかったけど当日の予約は受け付けていなかった、残念。それならばとニコンプラザへ鈴木理策さんの展示を見にいく。JRの東口と西口が通じたのを初めて歩いた。変な感じもするけど、もうすでにみんな馴染んで歩いてるし自分もすぐに馴染んでしまう。昔ここは改札内であって通り抜けられなかったという跡はどこに残るものなんだろうか。かゆい感じ。展示のタイトルは「海と山のあいだー目とこころ」、和歌山を撮っている。写真集の海と山のあいだからタイトルを引き継いでるということでいいのかな。事前にHPで理策さんの文章を読んでいたけど、あ、なんかずいぶんフラットに書いてるなあという印象だった。直近で見たのって品川キャノンの展示だったかな?あれは海外で撮ったものだったはずだし、あそこで書いてたのはまたぜんぜん質が違うものだったはず。今年出した写真集もそっち寄りなのかなって、買ってないけど。それは何度も通ってる和歌山だからだろうか。最近は展示の類はぜんぜん見に行ってなくて、なんか、億劫で、こわくて、明らかに避けてきた。でもやっぱりすごく面白くて楽しかったな。まあもともと好きだからっていう条件だったにせよ。ゴツゴツとした黒い岩場みたいなとこで撮られた作品は前にも見たことあるけど、こんなところがあるんだ、とまた意外に思ってしまう。秋田もあんな感じだったかな。海に対してはどうしても砂浜か港かみたいな印象があるんだろう。あの硬さが近寄りがたくて、ここはどこなんだろうと思ってしまう。知らない場所を想像する。いろいろここで言葉にしてしまうと、なんか、写真にあったもの、そう感じた自分の感覚が消えてしまいそうでもある。額装は1枚ずつされてるけど3枚1組にした展示というのはよくしているかなと思う、けど、滝を写した写真は間隔をあけていたな。あとは近接させていたのに対して。そのそれぞれの効果。まあほんといつも良く緻密に練られ作られている展示なんだろうなと思うその圧倒感。フラットなんだけどそのフラットさが異常って感じでありえないって感じがしてしまう。プリントがもうほんとすごく良いなーと思う、何が良いということまでは言えないわけだが。ぎゅっとつまってて、どんどんプリントの中へ中へと引き込まれる。それはピントがどこにあってるのかとか探ろうとし始めると余計にとか他の要素もありきだけど。それはまあいったら桜の写真をみたときから変わらないのか。印象的だったのは海と空と月をとらえた1枚だ。水平線がある。海と空はそれぞれに違うブルーだが、それを本当にブルー、青と呼んでいいのかわからないと思う。いわゆるその色名とは違うよね?と思うけど、じゃあ何色って言えるのか?何色でもないけどでも色ではある、あそっか光の色なんだ、とすんなりわかる。光そのものであって、光によって見えている色、ということでいいのだ、それでしかないのだ。滝とか雪の白もそうだった。前に他でも海の波をとらえた写真があったと思うけど、あの色もなんだか不思議だった。限りなく見たことがある、特別新しいイメージでもないのに、なんだかものすごく惹かれてしまうんだった。そうだったそうだった。森の中に射しこむ光をとらえた写真、あれもフレアと呼んでいいの?それもまたすごく面白かった。やっぱりそれも初めて見るイメージではないと思うのに、よく見るとまるで光が水面のように見えてきて、写っていないはずのものが現れはじめてくるようだった。率直に写されたかのような写真が魔術的になる。すごい質だーと思いながら出る。それから目白へ移動、タリオンギャラリーで遠藤麻衣×百瀬文「新水晶宮」を見る。ついたら16時くらいだったけど先客が5人くらいいた。長そうな映像作品だからどっかのタイミングで座れるといいなとうかがってしまう。ちょうどループの切れ目がやってきて早いうちに座れた。概要は事前に知っていたのもあって、モニターの粘度の作品より壁面投影されてる作品の方に最初は目が行った。ここはどこで、どうやってこの着ぐるみみたいなのを作ったんだろうとか思う。どっちが前で後ろ?それは眼?どこにどうやって行こうとしてるのか、何がしたいのか。2体が出会うと?起立して、割れ目みたいなところから触手みたいなのを出してくるのがちょっとキモい。なんなんだろうこのキモさは、これをキモいと思っちゃうってのもどうなのかなと思う。これで何をしているというのも理解はできない。何かなんだろう。手前のモニターの方ではてかてかした粘度の地面、地層の上でふたりの両手が理想の性器を作ろうとしている。作りながらふたりは喋り、喋りながら作り、作りながら喋って性器は形変えていく。最初の方は反響のせいかよく声が聞き取れなくて、次第に慣れていった。どちらが誰なのかもわからないけど途中でわかる。こうゆう考えの人がこうゆう形を作るんだ、ということに次第に慣れていくというか受け入れていくのか。ふたりの会話を聞いていると既存の事柄に無数の疑問が出てきてしまうような気持ちになるけどでもなんかそれも違うよなと思う。ふたりはこの作業をする前に話し合ってたり共有してることがあるんだろうから、そこには溝を感じつつ、ところどころで自分でも自分に探りを入れていくような感覚になっていく。いつくらいだったか忘れちゃったけど、割とペニスっぽい造形物だったときにここに眼があって〜みたいな会話になったとき、眼があると擬人化されるみたいな会話まであったかどうか、その話の流れのときに文藝で読んだ、こないだ芥川賞をとったらしい遠野遥「破局」の中で主人公の彼女がセックスの時ペニスに話しかけるという奇妙な面白い描写のことが思い出された。その行為の面白さというよりは、彼女はペニスには敬語では話かけていないことから主人公の私に話かけているのではないということを察知し、とは言えペニスもペニスだから返答はしないし私も私に話かけられているわけではないから返答しない、という認識の仕方がぶっとんでるんだけど言ってることは間違ってないんだろうというのが面白くて。ペニスに話しかける彼女の行為もなんかわからないでもないけど?それってなんだろう?というのはある。眼があって〜の会話の時、性器が性器として独立してるみたいな状態だったような気がするが、それがこの話かけられるペニス、というのに接近を感じたのかも知れない。そのあとひだみたいのになってキャベツみたいなのになるのも面白かったけど、道ができていく器としての性器のくだりはやっぱり面白かったな。その道を転がる何かが存在するというのがすごく変な感じだけどアリな感じ。いつもの夕方頭痛が後半やってきてちょっと辛かったけど、いろいろと奇妙な後味が残された。とりあえず急に出かけて急に行くところ決めて、そうゆう方がやはり面白みはあるってことなのかと感じる。