ここ2日くらいダニエル・ハートのi get overwhelmedをヘッドホンで繰り返し聞くのが癖になってしまってて耳がおかしくなりそうだと思うけどなりはしない。巧妙に作られた音楽に自分が操られる様。図書館で借りた斎藤環「母と娘はなぜこじれるのか」を読んだ。前に本屋で見たことはあったけど、なんか違うんじゃないか?と思ってスルーした。でもいつもそうやってきた、違うんじゃないか?はとても怪しいものだ。5人の女性たちとの対談集だが、これの前に単著でだしてる母娘本で足りきらなかった部分を埋めるものでもあるらしい。田房永子さんがイラストで書いてる呪詛植えの流れというのがガチガチに私自身も当てはまるもので驚く、こわいくらいだ。いやその影響があったこと自体は前から自覚していたことだ、だがそれを植えられて発芽して呪詛となるという仕組みで図解化されているのでなるほどそうゆうことだなと客観的に理解することができる。これはすごいと思って検索したらtogetterになっていた。

https://togetter.com/li/1127274 

これを見てでもショックだったのは、完全にうちもそうと同意している人とは反対に、全くそのような家庭環境にはなかったという人たちがいるということがわかったことだった。私にとっては子供という存在は親に言葉の上で虐げられて当然なのだと思っているところがあるから、親にけなされることのない安全の中で育ってこられた人たちがいるんだということが率直にショックで、でもその方が当たり前に健全であるのだと思うと、じゃあなんで私はさんざんずっとあれが悪いこれが悪いどれができないそれもできないと繰り返し繰り返し言われなければならなかったのだろうか。私は悪い子供だった。よく怒られてはぶたれたり蹴られたりもしていたし夜に家のそとに放り出される事もよくあった。でもどうやら他の家ではそうゆうことはそんなになかったらしいことは薄々最近わかってきた。こう話すと、大体驚かれ、引かれている気がするから。そのあり方が正しいか正しくないかなんて、その当時に誰が言えたんだろう?誰か言ってくれただろうか?誰もなにも言わなかった。私が悪いと思うしかないのだった。私は悪い子供なのだと何度も自分に言い聞かせていた。だから親に対して申し訳ないと思わなければいけない。こんな子供で親はかわいそうだと思った。ぜんぶ、子供が子供なりに考えたつじつま合わせだ。母になにも言えないのは、言わないのは、言っても伝わらないと私が確信を持ってしまっているからだ。試しに言ってみる、でもやっぱり伝わらない。だったら最初から言わない方がまだマシだ。口に出してその上で伝わらないことのショックからは避けられるから。親は子供を力ずくでどうにかできると思っているだろう。なんかもうそれがずっと今でもそうな気がしてくる。私は永遠に子供の頃のままのように扱われる。そして私もずっと子供の頃のままでいる。私には今の身体のサイズの感覚より、子供の頃のサイズの感覚の方がしっくりきてしまう、母に罵られるその時には。母は私を痛めつけてそれが親と子であることの上下関係を示しているんだろうか。私がなにも言わないのが悪いだろうか。いつだって私が悪い。自分が死にたいと思っているひとである、それでも死なずに生きているひとである、ということを抱えて生きていくのはやっかいなめんどうなことだ。それをどう説明しうる?誰に説明しろと言われるわけではない。けれど私はそれを言えないと生きていられないのだ。それを言えることでようやく肯定がある。いつまで生きているんだ?という問いに私は答えられないと居られない。ゆるされることも愛されることもわからない私にとってそれらは疑るべきものでしかない。それは嘘だ、と思う。しかし斎藤環が冒頭で男は身体を持っていないという言っていることはなんかすごく納得みがあるな。それは精神分析的視点では、ということにはなるが。それは女には身体がありそれを母と娘で共有することができるということがわかるから、だから男にはそれがないというのが理解できるってことになると思う。私は小学生の頃にドラマのイグアナの娘を熱心に見ていた。仕事から帰ってきた母も一緒に見ていたように思う。あれは、その図は今から考えるとなかなか面白い気がするところだ。母の育ち、つまりおばあちゃんとの母娘関係というのも参照しなければいけないだろうと思うところがある。萩尾望都角田光代との対談はいろいろそれぞれぶっ飛んでる感じがあり良い。母はイグアナの娘を一体どの立場で見ていたか?