初めて気づいたというわけでも無いけれど自分はある種の過激な表現に惹かれるところがあるのだなあと思う。どんな過激さか、過激という線引きは、など規定すべきものをすっ飛ばしてかなりふんわり、けれど自分の中ではわりとはっきりと、そう感じ、思い描くものがある。ダムタイプの最初のメンバーは京都市芸の学生だった人たちが中心になっていて、キュピキュピの石橋さんは同じく京都市芸で同年代で、みたいなのをどっかで読んでなるほどなあと思いながらフォコンの写真を思い出す。過激なものが好きと言いつつ、いや自分は静かな表現が好きなんだとも思う。でも両者は結局対立するものではなく、およそその両方を表現できる人たちが好きなんだろうと思う。過激さ、に惹かれる理由、原因として思い当たるものがある。それは子供の頃のヒステリーの強かった自分の姿だ。まあ、つい最近までも存在していたが。自分の中にある自分でも手のつけようのない激しさ、心も頭も沸騰して暴れ出してしまう体、それは訴えで、だれにも届かない訴えを叫んでいた。親はさぞ手を焼いたことだろう。自分のそんなきわどいふるまいを抱えながらもそれは分離することなく平然と生きていた。それはいつだって爆発する準備ができている。でもまあそれはやはり子供時代に家庭内で育まれたものだと思うので、他者だけの前でそれをさらけ出すということはないように思う。むしろ他者に対しては無理なのかもしれない。じっとしていることが苦手で、そのこともずっと母に言われ続けていたのでダメな子供なのだと思うに値した。机にじっとしているのは確かに成長しても苦手で、なんかしら体を動かしている方がラクだと思うようになった。私は体を、エネルギーを持て余している/たのだと思う。言葉で言い表せない悶えを必死に発散させていた子供時代を思い描いては、それは自分にとっての正しさだったのだと思う。過激な表現を目にすると、惹かれ、安堵する気持ちがある。居心地よく、許されることを感じる。許し、は自分にとっては数年前までは大きなテーマだったと思うけど、今ではすっかり普遍的なところに落ち着いたかのような。穏やかに許しという事を受け入れて考えられる。つまらないかもしれない。過激さに自分の身体を重ね合わせ、透明化する。それで私は救われる気持ちになっているかもしれない。

池袋の花屋で青い花を見かけたので最寄駅の花屋でもあるかなと思って探したが、青い花は売っていなかった。