最近はずっと体がだるいのが長引いているがもうこの先ずっとこんな調子のまま、いつもずっとそうってことになるのかもしれないな。そんな予感だけはする。あきらめ。先週の生理の時に今までにない激痛が走って、立ってられないほどで、それがそのうち食べ飲みすると、体内に流れ入ると激痛が走ったりしてあれはやはりストレス性のものだっただろうか。子宮が痛いんでもなく、もはや体のどの部位が痛みを発しているのかわからないが細い線状の激痛が尻の内部のあたりに走るのだった。まさに空を稲妻が走るみたいに、見えないから、そう想像しといた。今日は出かけようかと思ってもなぜか気持ちが折れそうになる、なんで?と思うけどわからないから化粧をしてしまえばと思ったが化粧をしても内側から自分が萎れていくのだった。なにもないのに涙が出てきてとまらなく、完全にいかれてしまってると思う。無理だと諦める。また自分の顔面が醜く見えて仕方ない。17の頃とまったく同じの現象はなおりそうにない。ただもう今は十分それを知ってしまっているから拘泥しないで済んでしまう。ネットフリックスで「よくおごってくれる綺麗なお姉さん」を最終話まで見おえる。半分くらいまではゆったり1話ずつ見ていってたが、そこから後半はもういてもたってもいられなくなってしまうのが韓国ドラマのはまるところだろうか。日本のドラマに比べてたっぷりと時間があるぶん、同じようなストーリー構成のものだとしてもその差は歴然というか、描写するエネルギーが違ってしまうと思う。ひとつひとつのエピソードをねっとりこってり描き、連なり重ねていくことでそれぞれの登場人物たちの複雑さが深みを増して絡まりあっていく。ソン・イェジンの多彩な表情、仕草、目線の向け方や、かわいさはもちろんやばい、すごみだが、恋人役のチョン・ヘソンもとっても良い。年下の彼氏という立場は背負うものもあるはずの役だが、ジュナという役が持っているというかジナに向けることのできる人柄、資質としての相手を思いやれる言葉があるのがととても愛らしくあり、だからこそ後半に強まる葛藤や焦りや不安があらわになってくるのが効いてくる気もする。ソン・イェジンってほんとどうしてあんなに本当に愛らしく優しいまなざしで相手とやりとりができるんだろうな。演技とよぶにはあまりにナチュラルに見えてしまう。あれでまだ隠している、見せていない表情があるのだとすればすごいし、そもそもまるですべて見せてしまっているかのようなあの無防備さは一体なんなのかってことである。ユン・ジナ、という役名、あ、愛の不時着のユン・セリと同じ名字なんだなと気づいて、なんかすごいなーと思った。はげしい母娘のドラマでもあったわけだが、会社のパワハラ、セクハラ問題と合わせてそれまでに比べるとちょっと最後で急にまるくまとめすぎのような気がするのが物足りなく感じた。でもそこまではしなかったというのがユン・ジナという人だったともわかる。だからそうなった、というストーリー。後半はもっかい見直さないと色々ひろいきれてないような気もする。後半はセリフが、特にジュナは減って喋らなくなっちゃうから表情とかから読み取るしかなくなっていく。ジナも表現や声から読み取らなければいけない。ふたりはふたりの愛情表情はたっぷりできるのに、他の人たちとの会話は下手になるし雑になってしまったりする。それは好きあってるふたりだから可能なことで、それは夢で、覚めてしまったときの凍てつきのような変わりようはどうしてあんなに、そんなにすべてが違う風景になってしまうんだろう。あの残酷さを、たっぷり時間かけて描いているところにぐいぐいのみこまれた。時間の経過とともに愛し合う言葉を恥ずかしげもなく簡単に言えてしまうようになると、なぜかそれらはどこか一方通行的になり、うすぺらくなるんだから不思議だと思う。本当に必要な言葉ってなんだろうな。最後の最後とかなー、もっとここ時間かけて描いてほしいと思うところはあったけれど。エレベーターのシーンがこれでもかってくらい繰り返し出てくる。特に会社のビルにおいては何基もあるようなエレベーターだからこれ絶対エレベーターですれ違っちゃう描写が出てくるのでは?と思っていたのに全然ない、むしろふたりはエレベーターで必ず会えるのだった。私はもしかしてこれって別れたままのエンディングなのかもと予感し始めてこれはもうどうしようもないんじゃと思っていた矢先のエレベーターのシーン、うわまさかついにここですれ違ってしまうんじゃ、、と思ったら。最後の最後までとっておいたのかーー、とショックをうける。でも全然ナチュラル描写だったな。あと全体に鏡やガラス越しで撮ってることがよくあったのは気になった。ジュニの部屋はイケアのものがよく目についたし、家や部屋の美術セットも衣装も見応えがあった。挿入曲はスローテンポのものが多くて、静かで穏やかに流れる。感情にこみあげさせるような大盛り上がりのある曲じゃないのがとてもよい。見始めたころに思ってたより断然おもしろかった。しかし見終えてしまうとさみしい。そうだあれだ、なんか急に最終話観てたらわかったんだ。これは男女の異性愛者の物語だけど、この関係はほかの関係と交換可能なものだと、それが描かれているんだと。それは愛の不時着見たときもほぼ似たことを思っていた。だけど今回よりはっきりわかったというか、それの補助になったのが宇多田ヒカルの初恋という曲、インタビューで初恋っていうのは自分にとって最初に出会った人つまり両親なんだと語っていたことが私は衝撃的でずーっと残っていて、その発想自体は理解できるけど両親が初恋の人だなんてどうして言えるのか、理解と分からなさがずっとあって、でも、それがようやくわかった気がしたんだ、このドラマで。愛する人、愛されたい人という意味ではそれは恋人に限定されない。愛とか恋とか、それらの言葉はあたかも使う相手や場面が狭く限定されてしまうかのようなイメージに囚われているだけで、本当もっと開かれている状態の言葉であるんじゃないかと思えた。それは単純に人と人との間で持ちえる感情であり行動であり発言であり、常に移り変わりゆく風景のようだ。最終話というかネットフリックスだと最後の2話で、そうゆうことを率直に感じさせられたはずなんだけど、見おえて数時間も経つともうすでにそのことが薄らいできていて一体どうゆうことだったのかがうまく言えない。男と女の愛しあう関係性が唯一の最上であるという植え付けでみんな恋愛しなくちゃダメなんだ、してないと幸せじゃないんだ、みたいなのは全然ない、それだけが、みたいなのはない。その幸せもあるということに過ぎない。そしてそれは決して男女の恋愛だけでしか築けないもの、体験できないものというんじゃない。その痛みや苦しみ、喜びは他の誰かとの関係性においても同じくありうるものだ。そうゆうふうに練られ作られている韓国ドラマがすごいなあと思う。最初の方で若い女の子にいい歳の男がめっちゃ罵られるシーンとかはあれはあれでそこまで言えるのか、すごい、と思ったりしたが。