毎日自分はどうなりたいってことなのか考えてる。いやこんなことわざわざ時間かけて考えたりするようなことじゃないんじゃないか、もうめちゃくちゃ誰が見たって自明な明快なことを私だけが理解できなくて、わからなくて、見えてなくて、愚かそうにあわあわとうろうろと彷徨っているだけなんじゃないか。そう思えてくるくらい、なぜ、こんなにもずっと全然わからないんだ。わかることができないんだ。

こうゆうことか?と考えてみても違う方面から考えたらそれは否定されうるような、はっきりとした確信は持てないようなその程度の推測。ずっとそれらの繰り返し。ずっとその中にいる。わからない。誰かならわかるの?どこかになら書いてあるの?私がなぜこんなことで困難な分からなさの渦中にいるかなんて誰も分からないというの?

女性アイドル見るのは好きじゃないし、もはや今はすっかりつらいとさえ思ってしまう。韓国の女性アイドルグループの格好、ルックスは特につらい。みんな細くて細くて、肩や腹や足を沢山露出して、並んでいる。これが女性だということが、同じ性に属する女である自分にとってはつらいのだろうか。日本の女性アイドルグループは幼さが強くてその違和感で直視できない感じだが。女らしさといっても決して一緒くたなわけではないし、様々なバリエーションの衣装やヘアメイクでもって飾られていると思うけど、でも女性の体には沢山の部分、パーツそれぞれに女性としての良さや美しさや魅力的であることの証が刻まれすぎているのではないか。そうあまりにすべてのパーツひとつひとつ。それが露出され訴えかけてくる。いやだ、私はそれらどれも持っていやしないんだから、こっちを見ないで、私はそこに混ざりたくなんかない、一緒なんかじゃない、私の身体は魅力的なんかじゃないんだから、魅力的かどうかをジャッジされたくなんてない、ないないない、だから、女から逃げたい。だから私は女がいやなのかもしれない。すばらしい女たち。私はその横にならんで、どうなる?すべてひとつずつ比較するんだ。良いか、悪いか。髪の毛のかたさ、ふとさ、量、質、肌の色み、まぶた、まつ毛の長さ、鼻の高さ、唇の形、肌の毛穴、首の長さ、肩の形、鎖骨、胸の大きさ、胴のくびれ、おしりの形、足の太さや長さやすべて、体毛、爪、指、皮膚のコンディション、着ている服、化粧の有無に良し悪し、逐一すべてに私は気を揉み、良さなどないことに気づけば落胆し、自分を憎んで誰かのせいにしたくなる。持てる人を羨ましく思った。愛される女とは、それに近づけやしない女とは。自分の顔の不出来さに死にたくもなる。なぜそんなにも顔の不出来さに絶望しなければなかったのだろうな。いやになる。かわいい、きれいな女では、私はない。だから女から逃げ出したい。女なんかじゃないんだからと叫びたいのに叫べなかった。叫べたらよかった?だって自分は女なんだと強く思っていたから。それから逃れることなんてできやしないのだと。若さは素晴らしいけど、今の自分から見ると学生の頃の自分なんてやはりかわいそうなほど不憫にも思えてしまう。知らないということが。女から逃げたいから、決まり決めつけられた、みんなが想定している女から走り出して向こうに逃げたい、だから男みたいな髪の毛や服装をしたい。女か男かではっきり見られたくない。わからないとか、まざっているとか、そうゆう状態でこの社会の中に存在していたい。決められたくない。ただそうゆうことなのだろうか。

いったい誰と何と戦っていたのだろう。誰から見られることをそんなに重要視していたのだろう。できるだけすべての沢山の人からよく思われようと、よい印象を与えなくてはいけないと思っていたと?うそみたいだけど、でも、考えたらほとんどそんな感じだ。万人に好かれようと、不愉快さを与えてはいけないと、女なら穏やかでふんわりとしたやわらかなかわいらしさを優先してそれを揃えて身につけて提供していなければと思っていたんじゃないのか。冷たく、鋭く、ふいに人を不愉快にさせるような、顔をさらしてはいけない、一重まぶたの目は悪質だから、まだましな方の目の方で前髪をわけなくちゃいけないんじゃないか?それがマナー、それが人に自分の顔を晒すということ、見られるということ、少しでもマシな顔でいなければいけないと思っていた。思うというか、あまりにそれはすみずみまで浸透しすぎていて当然というか、それが世の真理と理解していた。なんでそんなこと、そんなことを私は身につけてしまっていたんだ。私はそれをがぶがぶと飲んでいた。

でもいいんだ、万人に好かれる必要なんてないし、どうでもいい人たちにもよく思われる必要もないし、誰かを不快にさせてはいけないと私が思う必要もなかったんだ。あるわけない、ないないないないない。365日ずっとその意識で生きていなきゃいけないなんて、あるわけない。そんなのおかしなことだった。狂ってる。そう狂ってた。狂いすぎだよ。誰かを不快にしたっていいし誰かがよく思ってくれてもいい。それは個人的にむすべる間柄なら発生しうるとしても、すべての人に配慮して、なんて、そんなこと無理なことなのになんでそんなことやってたんだろう、そんな無理ゲー、どうしてはじめて、はじまってしまったんだろうと思うけど私はもうやめた、やめていいんだとわかったから、したいようにして生きるんだ人にどう思われるかより自分のしたいようにしていたらいいんだということが、はじめてわかった。自分のしたいことなんて、まるでなかったんだ。自分を優先するとかなかった。ずっとずっと、誰かわからない、顔もわからない社会からの要請に応えていたみたいなんだ。