昼に母と渋谷のスクランブルスクエアで待ち合わせ。スペイン料理屋でお昼をおごってもらう。また私に結婚でもさせようと画策しようとしていて、なんだかなあと思うけど、今なんか特に自分の中で結婚に対する意欲はゼロ地点だから特に言うことすらない。結婚できないという負け、否定すらもう自分には関係ないからなあと思えてしまう。結婚できない人、かわいそうな人、ダメな人、というレッテルを貼られ、見られ、こちらもそれをせっせと背負い、請け負わなきゃいけないのなんて、あほらしすぎちゃう。自分の生活する日常で言えば、そうゆう価値観をもつこと、もたされることに縛られる環境でもない。しかしまともにこんなこと言ったって伝わらないだろうし、最初から何もなかった世界に変わってほしい。

お昼のあと蘭の一種という花を1本買う。それから表参道の方へ移動してずっとほしかったお皿をユミコイイホシで買ってもらう。はやい誕生日プレゼントとして。帰りに野菜など買う。疲れた。あっという間におわる。もっともっと視野を狭く絞っていきたい、そう努力しないと、意識的に。少しずつ体をそう慣らしていきたい。もぐる、ふかく、がんばる。

 

私は女だけれど、ずっとずいぶんと女の人の見た目のきれいさ、美しさや可愛らしさというものがいまいちピンとこず、よくわからないでいるところがあった。何かをきれいだと思うことのリアルを知ったのも16の頃だったし、なにかと鈍感だったのかもしれないと思う。ただ自分はどちらかといえば男の人のほうに憧れ、羨み、自分もそのようになりたい、そのような体になりたいと思うことが多かった。女には最初から憧れない、憧れにくい。同じ女だからこそ違う、なれないのであり、全く違う男になら幻想を持って自分を重ねられる、なりえない別人として。そうゆうようなことだったんだろうか。女という役割を押し付けられ、着せられることは嫌いだ。女はこうしたら喜ぶんでしょう?といった態度はつまらないものを見せられているのと同じだ。それをされることが好きな人もいるだろう。でも私は女であることをそこで拒否したくなるのだった。女という契約を。自分は女なのだろうか?と思う。最近はそう思っていいんだ、そう疑問に思うことができるのだな?ということを考える。自分の中にある少年性への憧れや同一性、重ねあわせ、それが自分なのではないかと思うときまだそこにははっきりとした性差はないのではないかと思う。