午前中から有楽町へ「ロニートエスティ」を見にいく。自分の宗教知識の足りなさもあってか、ちょっと入りこめないというか理解しきれずに見た。イギリスの厳格なユダヤ教コミュニティにおける女性のあり方。そこから抜け出たひとりの女と、そこに残った女と男の婚姻。女性と女性のセックスシーンというのもここ数年でいくつかの映画で見てると思うけど、この作品では描写が何かちょっと物足りないような気がした。女優ふたりともすごくきれいだから映えているんだけど、もっと絡みがあっていいんじゃないの、と。股下まで一体型のトップスの股のとこのスナップボタンを外すという動作はすごくいいなって思ったけど。あれは女がやるからいい、男があんなにやさしく外せるか?っていう感じでくらっとした。できる男ももちろんいるだろうけれど。キスシーンの方が良いかもしれない。それを見ていると、なぜ女と女、男と男でキスをすることが禁忌になるのかわからないな、という気になっていた。いったい誰が何を禁止し制することができるのだろうか。あんまりにもストレートに女は結婚をするのが正解だみたいなそんな感じのセリフがあって、この世界にはいくらでもそうゆう発言を平気でする人たちがいるだろうと思った。それに抗う人はそんなの滑稽だ、という身振りでしか反応できないのか?そのことがなんだか悲しく思えた。

見終えてちょうどお昼だったので珍しくちゃんと昼食をとった。三省堂で千葉雅也のデッドラインを買う。いつ買おういつ読もうと思っていたけどようやく買った。そのあとお茶の水へ移動してTOKASの展示、停滞フィールドを見る。渡辺豪さんの新作が見たかった。よくわからないけど渡辺さんの映像作品に惹かれる。映像の質感や、動きが好き。ずっと見ていたい、ずっとその空間にいたい気になってしまう。作品内にある要素それぞれが好きだと思えてしまう。もともと私がそれが好きで、それが作品になっている、ある、と思わされてしまうようだ。本の上部の小口らしきもののつみかさなり、もしくはつらなり、カメラの移動は上下のように見えるが、その視点が本当にどう動いてるかはわからないとも思う。とてもゆっくりとした動き。それをじっと見ている。なぜこんなふうに見ていられるのだろう。TOKASのあたりは休日は人通りがうすくていいなあといつも思う。少しは体を休めないとと思って明るいうちに帰宅。早速買ってきた本を読みはじめる。他者と近さの関係に入る、という話がとても興味深くておもしろい。夕飯に玉ねぎ、セロリ、しめじ、人参、キャベツ、ベーコン、トマト缶でスープを作る。ご飯と一緒くたにして粉チーズを最後にかける。あとブロッコリーをゆでたものに自作ドレッシング。週3日休みくらいでようやくちょうどいいよなあとつくづく思う。2日では自分がたりないのだ。

昨日の夜、sくんから、紹介されてた職場は給与条件が悪そうだというメールがきて、まあたしかにそれはそうかもって思うけど、でもなんにせよ自分のやりたいことをやれるのかどうか、その意思があるのかどうかだろうと私は思ってしまう。彼はやっぱり健全に保守的で、それは自分もそうだからすごくよくわかるのだけど、彼はそれでいいのか?と思うところもある。とはいえ彼が何を一番大事にしたいのかまでは知らないから。それは本人もわかっていないのだろうか。理想と現実のなかで。でも私には、はなれた場所からのメールの言葉だけでは何かを言おうとすることはとても無責任でうすぺらい気がしてしまい、何かを言おうとする、ということができない。それは何も言えないということだ。少なからず落ちこんでいるのだろうなと想像すると、私がかける言葉がどれだけ届きうるだろうかと思えてしまう。しょせん薄情に思われるのではないか。それをぬぐうための積み重ねる言葉はよけいにますます嘘くさくならないだろうか。言葉をかける以外のできることと言えば、言葉をかけないこと、になってしまう。わからない、他の手段が。これが遠い距離だ。しかしまあ、メールでもわかりやすい態度出すところはほんと変わらないよなあ。冷たい返事が、ひどいと思う。そうゆうところがいや。