金曜日に、世田谷パブリックシアターへ三好十郎作、長塚圭史演出の舞台『浮標(ぶい)』を母と見に行った。主演が田中哲司であり、長塚圭史も出演もするということで私のすきな俳優二人がそろって見れるこの機会は今のがしてはならんような気がして、母を誘って見に行くことにした。

二人ともテレビや映画でみるからして背が高くておでこがしっかりしているところが共通してかっこよくてすきなところ。田中哲司は特に最近ドラマに出続けているので日々のいやし。肌の質感がつやっと白い陶器みたいできれいなんだなあ。なにより奇抜な役も典型的な役もどんな役柄、キャラクターでもきもちよく見せてくれる仕事ぶりにはまってしまう。大学生のころからなんとなく気になりはじめてそのうち好きだ!と思うように。舞台も見てみたいと思いつつ、長塚圭史演出の舞台も見てみたいと思いつつ、舞台はチケットがアートや音楽や映画より確実に高くなるところになかなか壁の高さを見てきていた。でも、今回は再演ということや四時間もある作品ということ、なによりやっぱり田中哲司の演技を生で見てみたい欲が高まったタイミングだと思ってついにふみだしてみた。

一応、HPなどで簡単に作品については予習をしていった。ある夫婦がいて、妻は病にふせており、絵描きの夫が賢明に看病をしている。その課程で語られていく生と死、生と死の狭間に顔を出す宗教や戦争や芸術やら。そんな話。舞台セットは砂のみ。木枠で囲まれた砂の空間と、舞台両袖におかれた椅子に出番のない役者が座り、砂の中で演じている人たちを見つめているという演出。

またはじまりに役者全員がでてきて、長塚圭史が四時間もある作品ですと説明をするということ。それから芝居がはじまる。それくらいのことは一応知ったうえで。

その、まずはじめに全員がでてきたときにはまだ客席の照明もおちていない状態で、つまりまだ芝居を見るという態度に身体がもっていかれてない状態で、唐突にうわあほんものだ………!と田中哲司長塚圭史を目にしてしまってなんともいえない落ち着きと興奮がまざった心地になった。ああ長塚圭史すらーっとしてて立ち居振る舞いが美しいんだなーとか、あーほんものの田中哲司だーとか、うわあーというばかりであった。まあでもそこでまず一息つけたのだからよかったのかもしれない。

はじまりの、田中哲司演じる五朗が砂の中から本を見つけだす場面が、後から思うとひじょうに美しかったなぁと思い出された。あれは、いいなあ。

五朗が妻の美緒に対してなげかける言葉は過剰なようで、愛に満ちていて、乱暴で、すべては美緒が生きながらえるためにならどんなことでもしてやろうというそんな精神にみちあふれている。汗をふいてやったり額に手をあてたりごはんを食べさせてあげたり抱き起こしてあげたり、すべての動作もまたやわらかく優しくて、そのふんわりした動作のかんじというのがなぜ出せるんだろうかと疑問に思ったくらい。美緒役の松雪泰子は病人らしいか細さや白さ、今にも消えてしまいそうな儚さを出しながらも通った声ではっきりと意志のある女性としての芯が見えて、とにかく夫婦役のこの二人の演技のまざり具合はとても美しくて、二人だけの世界はいじらしく誰にもふれられない、入り込めないような二人の強さが発散されていたように思う。二人のやりとりが、ほんとうに、見つめているすべての人の目につきささってくるような激しさがあったように思う。お互いをお互いにしか理解できない相手として対峙する強さがあった。愛に満ちた五朗のセリフ、美緒のセリフ、それを演じるものの姿がただただつきつけられ何も言えなくなるような淵に陥られた気がする。

二人の暮らす家には美緒の母や妹、弟や医者とその妹、大家や五朗の金貸しや軍人の友人たちがやってくる。また美緒の世話をしてくれている陽気な力強さのあるおばさんがいつもいる。五朗はお金や美緒の病気の話については浜辺にいって話をするが、決まって感情が高まり相手に対して激昂してぶちまけた発言をしてしまう。それは、世間一般で通じている汚さをふくめたうえでの生き方に対しての五朗の許せなさなのだと思う。人間として芸術家として自分をごまかしだまして生きられない五朗が痛々しくてたまらなかった。決して相手を傷つけたいわけではないのに、すべてを疑い信じられなくなっており、それでいてなにか美緒を救う手だてや真理を求めるがゆえに他者との境界ができてしまう。そのどうしようもなさ。

五朗の平静を装うふるまいから激情し、また冷静さにかえっていく過程の田中哲司がほんとうにすばらしくて、ああもうなんともいえない悲痛さでいっぱいになった。他者には伝わらない、なんでどうしても伝わらない、わかってはもらえるが本人が感じおかれているその気持ちは絶対に共有できないという人間の断絶さ。それでもすべてをさらけださずにはいられない五朗の必死さが、生にかける必死な叫び、繰り返される叫びが、ただそれを見つめるだけしかできない何も誰も彼に手をさしのべられないどうしようもなさを感じさせられた。すごいな田中哲司

しかし同時にそれらの人々とのやりとりの中で五朗の生へのまなざしはゆらぎから一つの安定した場所へとむかう。絵を描くことで、自分にかえれたのだろうか。それを美緒は見抜いていたのか。

美緒に万葉集をよむ。またここで見せる田中哲司のやわらかさがとってもすてき。美緒に万葉集をよみ、解釈を聞かせることに喜びを見いだし、新たな生の価値観をとく。美緒はただそれを受け止める。いくつもの迷いや疑いにしばられていた五郎がまっすぐとした視線をもって、万葉集をよむ。おもしろいな、と思ったのが、パンフレットで田中哲司も言及している生を賛歌する歌がつづくなかうっかりなのか、妻がなくなったあとのさびしさをうたう歌をよんでしまうというところ。五郎は自分でもあっと気づいたように少しあわて隠して次へすすむ。その微妙な表現が、ラストの直前にとても印象的なものを感じた。あの味わいはなんなんだろう。 

そして美緒は息をひきとる。五郎は万葉集の歌をさけびよむ。さいごまで、さいごまで、叫ぶ。


うなああああ。田中哲司、やっぱりこの人いいないいなと惚れ直した。テレビも映画もいいけど、舞台もいいな。すてきだな。画面で見てたとおりやっぱりお肌つやつや陶器みたいなかんじしてたなあ。衣装も半袖シャツに七分丈くらいのズボンだったから、体のラインがよく見えて、テレビで見てるより細いなー肌きれいなー舞台の為にやせたのかな?とかいろいろ思った。はだつやー。長塚圭史もやっぱり声がいいなー。二人の場面は特にはげしく切実だった。 

また、セリフがある中では聞こえない砂の音が、人が砂の上を歩くだけの場面になると今までに聞いたことのないような音として聞こえてきたのでびっくり!そうか、本物の砂浜なら海の音で聞こえないし、こんなふうにさくさくとしたような砂をふむ音を聞くことってないよなあと思った。その機会は三回くらいしかなかったと思うのだけど(前の方の席なら違うのかも)、その都度みょうなリアルさが現れるようでどきっとした。

書かれた時代や海辺を舞台にしていることから、坂口安吾の私は海をだきしめていたいを思い出した。三好十郎と生きた時代はかぶっているのではないかな?戦争が背景にあるというのもまた同じにおいを感じた。なぜかちょうど安吾を読み返そうと図書館で借りてきていたタイミング。


あーおもしろかったなあ。生で受け取れる魅力の興奮がたまらなくよかった。月曜には夢売るふたりを見て、こっちも受け取るものがいろいろあってよかったし、できれば感想を書いておきたいところだー。なにかを見聞きし、それから自分の中にわきおこってくるなにかいろいろを思いめぐらすのは自分の中でぐるぐる動き回るものがある。