少し前にたまたま連続してみた映画『やわらかい生活』と『クワイエットルームにようこそ』の2作品。やわらかい生活の主人公は精神病院に入退院をくりかえしていて蒲田で一人暮らしをしていて働いていなくて生活のお金は死んだ親の遺産でくらしていてというので、おおなんか『ハッシュ!』の女の子にちょっと似てるなと思った。ハッシュ!では精神病院に一年入ってて、でてきてそれから出会ったゲイのカップルとの話ということなんだけど、まず女の子の父親が出てくるがその父親の娘に対する距離感がひどく微妙な態度で決して見はなしてるわけではないけどなにか軽蔑のい色が見れるように感じた。見た目からしぶっきらぼうな雰囲気、態度のその女の子にはおそらく友達なども一切いなさそうなかんじで出会う人々ともなかなか相容れない。ハッシュ!見て、ああ精神病院一年の歴史に世間はつめたいなあと思い、やわらかい生活を見てああなんかこうゆうのは、女の人の精神面のくずれみたいのは映画の題材になりやすいのかなあとか思いつつ、まあたしかになるなあと思った。ハッシュ!の橋口監督は『ぐるりのこと。』でも妻がうつのような具合になる様を描いているけど、これはまあ自身の経験が絡んでいるのだろうであって、ではハッシュ!ではどうしてあのような設定にいたったのかなとか気になる。
そしてクワイエットルームは精神病院が舞台だからまあそのままだ。これ見て、おお、偶然にも精神をいくらか崩した女性が描かれた映画ってけっこうあるんだなと気付いた。いやまあそりゃけっこうあるんだろう。男性でっていうと『カッコーの巣の上で』くらいしか思いつかなかった。ただ『グッド・ウィル・ハンティング』ではセラピーをする大学教授が出てきて主人公(マット・デイモン)とのやりとりがある、それはちょっと精神病とかとはずれると思うけど、主人公の物語の中でのありよう、変化の過程は似ていると思う。なにより教授が「君は何も悪くない」と繰り返し言う場面はとても力強くて、私はこの映画がすごくすき。台詞も映像もよい。
とりあえず何を思うかと言えば、女性がそうゆう立場にある映画を見た場合、あまり他人事とは思えない自分がいて、でもだからこそかへらへら〜っと見れてしまう感じもあるような。とくに深刻になるわけではない。とくに感情移入するんでもない。みょうなひとごとかんがあるような…。ひとごとではないひとごとかん。むむ。そんなわけで映画で描かれるものを絞ったなかで考えてみるとおもしろいことがあるもんだという発見。今後も精神がちょっとずれてしまった経験をもつ女性が描かれる映画などはもっと見てみたいところ。そうね、作り手はみんな知らない人同士なのに同じようなことを描いていこうとする志向が人間にはあるということだもんな。みんな人間だなあ。あーでもやっぱこうゆう女はきらわれがちにもなるんだろうなあーきっと、とも思うところ。やな生き物かも。


最近はっきり気付いたけれど、最近特に一人で人がたくさんいるようなとこへ出かけることや、またお金を使うことにとても臆病になっているらしい。人がたくさんいるとこがみょうに不安に思えてくると自分の身支度した顔や姿かたちがぶさいくに見えてしかたなくなってどうやっても何着てもみにくくてしかたなくて出かけられなくなることは17の時からあって、それ以後もそうゆう気持ちが芽生えてしまう事は自分でもわかってたからなるべくそうならないよう気をつけてすごしてきた。でもそれがどうやらここ最近はけっこうつよく出てきてしまうようである。それは容姿にみにくさを思うだけでなく、存在そのものにうしろ指さされるような後ろめたさや恐怖感がつよくある。人から白い目で見られる疑われるといった感じ、イメージがかってにぼうぼうとふくらんでいってしまっている。そのイメージに全身が感覚としてとらわれてしまうと、何が苦しいとかつらいとか言葉にならないままただそのイメージにやられてしまう。今こうしてする言葉の説明はあとからしているものにすぎなくて、その陥ってしまった時は私から発する言葉はなく、ただただイメージの想像の世界にのまれていってしまっている。だからどうにもできない、ならない、もどってこれないという感じがある。イメージの力というのはすごい。イメージはつくりだしているのは脳なのか?しらんが感覚に占められる世界というのはすごい。母は単純にそれを自分に自信がないからという言葉で言ったけれど、どうにもそんなありふれた言葉ですとんと落ちつく感じもしない。ありふれた言葉はだれもほんとうにその意味をじっくり咀嚼して発言してはいないように思えてしまうから疑わしく思えるのかも。自信のなさという言葉のうらにはどれだけのものがあろうか、本当にわかる人はいるだろうかとか思うのかも。言葉なんてけっきょくなんにもならないのだ、イメージの世界では。まあでもイメージの世界にひきこまれる時間はなんだかんだで限られている。なので今こうして言葉がある。そしてお金を使う事の不安感とかもたぶん前々からあったんだろうなあ、でもやっぱ無意識がひたかくしにしてたんだろうなあ。一人ででかけられないということの挫折感はそれなりに生まれるし、そこにはお金を使うことのうしろめたさやこわさがあって、人と一緒だと平気だったりするわけだから、自分をどう扱おうか、操ろうか、思考錯誤の日々なのかもしれない。でも、今年のろぼ野音はチケットもちゃんと買ってあるから行くのである。