なんかなんか。なんか。何も言葉にならないけれど。映画見て人ごみをぶらぶらして実家に行って姉の子ども、赤ん坊を見て、みんなでご飯食べて、そして私は借り物のギターをしょって一人暮らしの部屋に帰る。その、この1日のなか。ガラガラのすいた電車の窓にながれる夜、夜の景色。私はどこに行くのだろう、私はここから去ることができる、だれかはどうしているだろう。マスクをつけていない私は変なのだろうか。今月で34になった。年齢の数字。よく生きてる。まさか、という思い。こないだKさんに死にたいっていうより死ぬしかないって感じですよね?みたいなことを言われて、あ、そんな風に受け止めてくれるんだ、という、へえ、と思って、そのことの新鮮さ、そんなことを伝えてくれる新鮮さでもあったけど、それに感銘を受けてしまってそのものへの回答はちゃんとできないでいたのだが、死にたい、ではないというのはそうだと思う。でもその詳細さを自分で言葉にすることができなくて情けないように思う。

イメフォで午前中から「うたのはじまり」を見た。写真家の斎藤陽道さんとその家族を追いながら、幼少の頃から斎藤さんがきらいにならざるをえなかった「うた」へ、聴者である子供が生まれ存在することによってひっぱられていく。とはいえこの映画の中ではまだほんの入り口の部分しか描かれていないように感じた。私はこの映画を見ても、うたについては何にも言えない気がした。よくわからなかった。ただ、その前段階の起伏する過程、みたいなものはよく記録されているように見えた。斎藤さんの著書「声めぐり」を読んでいたから全体の流れはその本とも呼応していたように思う。

飴屋さんとの教会でのやりとり、飴屋さんはほんといつどこで見ても映像で見ても存在感がすごい、すごすぎていつも怖いのに優しそうでもある、そうゆう飴屋さんに斎藤さんがまなざしを向ける。相手の音や声は聞こえない、伝えてくれないという状況で、相手にまなざしを向けるというのは、こわくないのだろうかと思う自分がいる。奥さまの盛山さんが出産をする場面、これはこないだのナディッフの展示にあった写真の場面なんだ、と思った。ひとの出産の映像を見て、それが良かったと言っていいのかどうかよくわからない。でも、それを見せてもらえたこと、見せて良いのだと判断をくだしてくれたことに感謝する思いだ。ずっと、いかにして股から赤ん坊が出てくるのか不思議に思っていた。頭から出てくるっていうのは、本当に頭から出てくるんだなあと映像を見てわかることができた。体の内にいたものが、外に出てくるというのは、やっぱり不思議ではあるけれど、ひとは皆そのようにして生まれ出てきたんだということをはっきりと伝えてくれる場面だ。そして泣く赤ん坊。斎藤さんの筆談でのやり取りというのは、前にもどこか、何かで見たことはある気がするけど、改めて見ているとすごく面白くて、聴者のひととでは言葉の出し方が数倍上手なんだなあと思わされる。七尾旅人の筆談の言葉は、言葉にしたとたんなんだかうすぺらく見えてしまって、そのことにズキンとした痛みを覚えた。斎藤さんのそれは声で話をしていることとは違うけれど、違うという同じやり方なんだというように思える。このように生きて、生活している人がいるんだなあと思わされることへの距離感がちょっと新鮮だった気がする。

その20分後、同じくイメフォで同じくシアター2で「娘は戦場で生まれた」を見る。予告で見ていて気になっていた。今日が初日、そして最初の上映だった。イメフォの会員になってからは見たいと思ってた作品をすぐに気軽に見にこれるようになってまるで何かのようだ。シリアのアレッポでの政府抗議活動に参加し始めた当時学生だった監督だったが、その後6年の紛争を捉えた映像から作られている。偶然にもこの映画でもまた出産の場面があった。でもそれはまたまるで全然違うものだった。そのとき客席からどっと息がもれ、苦しみと安堵がこぼれてしまうような抑えた嗚咽がいくつもあった。波が返ってくるかのように、それに押されるような感触があった。赤ん坊が生まれる、声をあげる、泣く、という行為の報せ。うたのはじまりでも赤ん坊が泣くということを考えさせられた。卒研でも自分の泣くという行為は退行のようであり、自分の赤ん坊の頃の写真をそれとはわかりづらいイメージとしてパラフィンの中に取り入れていた。でもそのことについてはそこまで追いきっていなかった。けれど赤ん坊が泣くという行為で存在を示すことへの興味はいまだにあった。それも想像の域を出ていないことではある。卒研の時は涙のほうにフィーチャーしてて泣くという行為についてはかなりはしょった感がある。今になるとそれで良かったのかどうか、という気もしてくる、嫌な気持ちだ。

映画はすごく良かった、いろんな人に、みんなに見てもらいたいと思うような。そうゆう映画は時々あるけど、そう思った映画こそそんなに簡単に人に勧めるなんてことをしていいのだろうかという問いも起こる。現実っていったいなんだろうと思った。自分が今いる現実、知らない現実、知る現実、なにをどう現実だと認識できうるんだろう。なんだか強烈に地球というひとつの惑星について、ひとつづきの先を思い起こされ、納得してしまった。それがなぜなのかよくわからないけど。そこは遠い土地、違う顔立ち、違う言語、違う文化があって、宗教がある。人が何人も死んでいく、それはこないだ見た彼らは生きていたにも通じるようで、人が人を殺していくことの混乱をさけられない。後半はもうずっと喉が締めつけられるようで苦しかった。

イメフォのあと、母からひな祭りだからご飯食べにこない?という連絡が来ていて、めんどくさいなと思いつつギターをとりにいくか、というのもあっていくことにする。ってことでまた大宮へ。途中であちこちぶらつく。でもなんにも買わない。実家で猫たちと顔をあわす。猫ほど顔をあわすというのがしっくりくるものたちはいない。姉家族の方でご飯は食べるらしく料理をはこぶなどする。赤ん坊は2ヶ月ほどだが大きい気がする。顔ができてきた感じがする。なんだか奇妙だなと思うのは、うちの家族は、家庭はもともと仲が良いというわけでもなくむしろ会話も少ないような閑散とした集まりみたいなものだったのに、なのに、こんな形に、きれいに彩られた家族然とした形態になれるなんて、姉が結婚して子供を産んで実家の隣に住まいを持って、それだけでこんなことになるなんて。なにそれって感じ。私にはどこかまだ信じがたく嘘くさく見えてしまうけど、そんなこと思っているのは私だけなんだろう。だから私は自分だけがここから浮いているように感じられる。早く帰りたいなと思う。21時前には家を出た。自分だけが外れているように感じられる。でもその方が自分にとってしっくりくる。前々から自分が異物なのではないかと思っていたから、それがすっきりはっきりしたことは見通しがよくなったようなものかもしれない。でもなんだか疲れてしまった。映画2本で家族というものを見て、さらにまた近い故によくわからない知らなさがある家族を見て、どれも全部に自分みたいなのは入る余地がないようで少し窮屈になったかもしれない。