一度しにたい思いにとらわれるとしばらく離してもらえなくなる。死なないので息苦しくなる。やってられん。


化粧をする前とした後のどちらの顔が醜いか。わからなくなる。


答えというのはあって最初からあってそれの出し方導き方のことなのだと思う。でも答えがないいつも。それに直面してしまう。


テレビドラマで聞いた二十歳に戻りたいというセリフは痛々しく、そんなこと言うなよ、と思いながらも、ああでもたしかに私も思うよ、と思った。二十歳にもどれたらどんなにいいだろう。そこからやり直せるならと思った。でもまてよ、二十歳のころなんていったら、苦しくてたまらんようなころではなかったか。あ、思い出したその苦しさ。ああいやだいやだ。いつに戻ったって自分の苦しさが蘇るだけじゃないか、なんだ、そうだ、そうだった。そしたらいつだって現在がましなのかもしれない。


意味もないのに生きることを自分ははたしてちゃんとできるのだろうかと不安になる。なんの意味もないまま生きる。そのことそのものがこわい。自分が生きてることが急に宙ぶらりんになるとそんなようなことになる。自分の生きてることも死なないことも見つめるのと見つめないのとではなにが違うのか、どちらが楽でどちらが苦しいか、そんなんあるのかないのか。空洞をつくってしまう、みつけてしまうと、全部そこに内のひだにまきこまれていってしまう。表面が隠され内部になってしまう。巻き込まれる。



先生にはもう5年会っていない。学生のころ、この先も先生がいてくれたらいいのに、というようなことを先生に言ったことがある。その発言にはなんの裏も含みもなくてただただ本当にそう思ったから言ったのだ。先生にそんなことを言えたのは素直にそう願っていたから。女である自分は汚い気がしていたんだろうなあ。だから彼らと同じ男になりたかった。同じになりたいという願望があって、なれないので、憎かった。自分だけ汚れているのは嫌だった。どうしたらその汚れから逃れられるのか、だったのではないか。



今月見に行ったライブメモ、山本さん、ドミューン、キセルとゆうき、明日はリキッドルームにいく。来月は山本さんとあと恵比寿映像祭や都現美のサテライト、アピチャッポンが横浜であったりなにかと多い、ライブはあまりないような。再来月はdownyなど?星野源の楽曲がどれもどうも同じのようにというか、実際この曲があの曲ねと思ってたらそうじゃなかった、あれでもこれさっきの曲とどこが違うのか判別できない私の脳みそ、という現象が起こるのはなぜか、と思って自分がなにで聞いているかが関係するなら私は例えばギターのざらつきの音を聞いているのか?それで音楽を聞き分けているの?と思った。それならすこし納得いく気がした。