qyu2008-10-18

大学生の頃、友達が実家へ帰るというのは実際にはなんの関わりもなく障害も問題もなにもないというのに、なぜかおいてけぼりにされるような、見捨てられたような感じがわあっと沸き起こるものだった。べつに何かの予定をしていたわけ出もなく、べつにいたところで連絡も会うこともしないとしてもそれが通常であったとしても、普段なら当たり前かのようにすぐに連絡がとれて融通もきくはずが、自分のすぐ近くからいなくなり、私は知らないところへ帰っていき、もしかしてもしかしたらもう戻ってこないのかもしれないというよな思いがたっていた感じがある。なにより、そこには絶対に適わない、家、家族というものがそびえ立っていて私はそこに口を挟むことも立ち入ることも見聞きすることさえもできない巨大な能面が誰しにもあった。得体の知れないおばけか妖怪か、の勢い。

18で初めて出会ったからか、みんなこれまでに大抵はそれぞれの経験をしてきて何かを隠したり守ろうとしたりしている態勢は出来ていて、それまでに作り上げられてきているものが多少なりともあって、今からそれよりも昔のことを知るのには現在からの過去話でしかなく、個人が持つ生まれ育った土地の匂いなどは知らないもので聞いて想像するだけで、つまりこれまでのそちらは私の知らない世界がどれだけ広がっていることか。それは、多くが一人暮らしをし、さまざまな土地、環境、境遇からやってきた中でアイデンティティを示すのには大きな一役だった。だから、それまではじめての土地ではじめての一人暮らしをしていたという仲間意識を持っていた人間が実家へ帰るというのは、こちらを捨てた、決別のような強度を私はなぜか感じてしまっていた。それを決壊させることはできないのに、できないほどの強い鎖でつながれた二者とわかっていたからこそ、余計にどうしようもなく切ないあほらしい感覚が目覚めた。なんでそんなしょもないこと思うんだろうともおもった。んなこと思うのがはずかしいとも思った。それもあってか、こんなことは誰にもいえまい。だって、戻ってくるのが前提じゃないか。でも、たかが偶然の出会いだから、もしかしたらそれは突然目の前から永久にいなくなる強度も常に持ち合わせていたと思う。私はそれに振り回されていた。

こんな感覚ってどうしようもないよなーと思う。なんかしょーもなさすぎで、いっときの瞬発的な思いにすぎない。でも大抵はそんな瞬間にとびでた思いに気をとられるのかもしれない。私はずっといつもそうゆうものたちに、とらわれすぎるのかもしれない。無駄な時間なのだ。他人からみても、自分からしても。でも、自分でもいくらそう考えたってどうしようもないことにめくらまされてしまう。そんな自分のなさ、よわさはどうにかするしかない。すべてそうしかない。自分のことばしか存在しない世界はとても不安で恐怖でなぜそんなものに奪われるのだろう。それなら押しつぶされて消えてなくなればいいのに、ものとして。



明日はぎりぎりで参加証をとれたボルタンスキーの講演会に行く予定。