液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

ぎりぎりでなんとか恵比寿に「トウキョウソナタ」を見に行った。9月公開時には近所のシネコンでもやっていたものの、2週間くらいだけだったため、それからずっと見たいと思いつつもどうもなかなかうまいこといかず逃し続けていたので、ようやっと見たという感じ。黒沢清監督の作品はまともに見たことはない。でも今回の作品においての新聞や雑誌でのインタビューを読む限り、嫌いな人じゃなさそうだなという好印象をもっていた。それでも名前はべつにはじめて聞いたわけではない、ということ。
すごくおもしろいな、という感想。この人はこんな映像をつくるのか!ということをまず知り、ああそれはおもしろいなと思った。映像が面白いというのはやはりいいなと思う。映画でそう思うのは、映画館で見るから余計に味わい強く抱くのかもな。作品のはじめからさいごまで、作品として作りこまれているのを感じた。タイトルや出演者・スタッフ表示のフォントからしてすごくいい。それの同時のはじまりの映像も気にかかってやまない。不吉な、不穏な、どきっとして、知っているようででも実際には何だかわからない心地でつかまれる。他人の家というのはそうゆうものかもしれない。家なんてどこも似たようなものでいて、でも内実はやはり異なっていて、各々の事態がある。て、まあこれはトルストイの名言を知ってから思うことなのだが。
映像がどれもまずきれい。時々ホラーのような妙な恐怖感をにじませた場面があり、そこがまた面白い。なんか思わず笑ってしまうのだが、でもそれがリアルでないとは言えないかもと思う。だから笑えるんだか笑えないんだかわからなくて、妙な戸惑いの感だけ残されてしまう。香川照之津田寛治のやりとりの場面は特に面白くて好きだった。なんだか最強であった。ハローワークの行列や、配給の場面は誇張した表現をしていると思うが(でも実際ハローワークはああゆう混み方をしている)、その誇張してぐさぐさと登場人物たちをさしていき、また見る側も、こちらの世界をも同時にぐさぐささしていくような感じは見てて妙な興奮を覚えた。なんだろうなあ、とにかく妙な感じを様々な場面で受けるのだ。見ながら、なんなんだこれは…と何度も思っていた。
家族4人という構成は私自身とそっくりで、私の家は姉妹になる。母という存在を通してでしか家族のそれぞれの自体が成りたっていこうとしないというのが、まさに見事に表現されていて気持ち良い。そうなのよね、なぜかそうゆう仕組みになるんだよなと頷く。父というものは父というただそれだけの外皮だけでしかなく、ほぼ実体はないようなもので、ただ型にはまっているもの。父自身がその型を行うことに従事し、また子供もその型が父というものだと見ている。母がいないと両者は繋がれないかのよう。そんなふうにバラバラの個人の集いでありながらも、夕食だけは共にする、というのがまた私の家に同じである。しかしこの映画の中では4人が揃う場面は一度だけだし、さらに父というものの形がより強く描かれていて、やはり笑えるんだか笑えないんだか妙な心地をぺたりとぬられる心地になる。
家族がそれぞれにそれぞれの状況を迎えることになる。兄は米軍へ行ってしまっており、残された3人はばらばらにある一夜を過ごし、そして朝を迎えたとき、3人はすべてなにかをふっきったような表情になっている。それまでにあったごたごたは一新され、その内容が鮮明であるかどうかというよりも、個々に立ちあがる人間の明快さがストレートに示される。3人はただ一夜の眠りから覚めたのではなく、もっと大きな深いところからまっすぐに目覚めてきたように思われる。そしてまっすぐに家に帰ってくる。帰ってきた時、3人はそれぞれに何があったかなんて知らず、聞くこともなく、それぞれのことには無関心にただおなかがすいたという本能において朝ごはんにむさぼりつく。それができる、それが家というもの、機能、空間なのだ。家族という共同体とはそうゆうものよなーと頷く。別に家族みんなで解決するとかあまり必要ないし、あんまりありえないし、うそくさくて、個人が個人でありながらも、家族という機能があるから帰れる場所があるのだろう。うーんなんかあまりつじつまあった言い方になってない気もするけど。いやなんかほんと特に3人がばらばらに帰ってきて、家の中は荒れてるんだがそんなの関係なしにいたってふつうに朝ごはんをぱくついているあたりがすごくすごくよかった、好きだったのだ。わわっ、とくるものがあった。そして離れている兄もまた、3人と同じように事を得ていた。
最後のピアノのシーンはこれまた奇妙な感が残されてふしぎなものだ。なんなんだろうあのカメラワークとか。ちょっといまだにうまくのみこめない。よくわからない。どこからどう見ればいいんだか。ただ、香川照之小泉今日子を映すとこがすごくよかった。全体に大体ピントがあってるなかで、二人の表情が何かに導かれるような、まるで天使の迎えが来たんじゃないかってのような、気づきの驚きや発見のような啓示に導かれる感じがした。とても印象的。
ラストで希望が示されたという所で、私の実生活にそれを見出せるとは特に思わないわけだが、とにかくすごくおもしろかった。妙な心地がたくさん残されているという点でもふしぎでしょうがない。なんなんだこの心地は!というのが現状での思いです。それでいて、おもしろいと騒ぐ心地。




ガーデンシネマをでると外は暗くなっていて、いろいろと光っていた。バカラによるシャンデリアみたいのとツリーとがあった。でも全体的な統一感はなんかヘンのような。しかしまあ突然こう予想していなかった景色があると、わほっという勝手に素直によろこんでしまうような気分になった。そうゆう機能がイルミネーションにはあるもんなんだな、と知る。また、そこかしこの人々も思いのほかぽわわんと魅了されて小さな範囲の世界だけはやさが遅れているようにも感じられた。


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すべてが無価値になっていくよう。その発言の実質はじつは自分でもよく分からない。のだが、ただぽろんとそんな感覚→言葉が私の中からうみだされる。そんなふうに、きちんとものごとを考えたり捉えたりすることができなくなっているのか、しなくなっているのか、なにかしら。ただただぽろりころりと、なにかしらの感が自分の中からころがってきて、それがぽつんと佇んでいるのを傍観しているような心地があるだけなのだ。
病院での問診のいくつかには、怒る・泣く気力さえないというようなチェック項目があり、そのとき私は不安や苛立ちや悲しみや憎悪や涙等のきもちで沢山だったから、うわそんな状況もありうるのかーそれはきついなーと思っていたが、なんだかそれに近い感じになってきたのかもしれないと気づく。どうも強い感情が湧きおこらないここ最近。それに自分で気づくと、ヘンだな、と思っていた。それでいて連綿とつづくようなざわついたものは私を支配している。しかし以前まであった激昂はどうも波を引いたまま返ってこない。かといって回復の気持ちが芽生えてきているわけでもない。陽は昇らず沈むこともない情景がつづいているような、そんな中にいるような日がつづく。不安も怒りも悲しみも憎しみもどれもが私の前から薄らいでいく。収縮してしまったよう。それらを激しく発出するエネルギーが満ちない。それらにかまうことさえどうでもよくなったかのよう。何も大きなことは起こらない。しかしかといって上を向き前へ進むエネルギーが作り出されているわけでもない。それらもなく、なにもなく、すべてが放棄されていく。激しい怒りや悲しみはどこへいってしまったのだろう。もはや、そんなことはどうでもよくなってしまった。自分を責めることにさえもう無関心になってきている。それはもうわざわざ言わなくていい。自分とも家とも争いを起こすのには疲れたか、飽きたか、しなくなった。家の人たちと顔を合わさず口もきかずにいることも、不自然なくできるもので、そうやって回避していくことで摩擦も争いも生まれなくなる。すべては、関わらなければ、過ぎ去ってゆく。私は洗い物をして洗濯をして掃除をしてよくわからないざわつきに押されて時々過食をして午後になると2本立ての濃い内容の夢を何度か覚めながらも見続けて、ひたすら毎日お風呂には入ってテレビを見て夢が一切あらわれない深い眠りへ簡単に入る。
私にはこの家が崩壊していっているように思えてならない。しかし他の人たちはきっとそんなことをわざわざ考えてはいないだろう。それぞれにそれぞれがあるのだから。家というものは大抵は当たり前に機能しているようなものだから、それでいいのだから。私自身の行動を私が知っているから私はそう思うのかもしれない。私の内部だけで、私にとってのみ崩壊しているのかもしれない。私が崩壊しているだけなのかもしれない。彼らはこの家に少しの異常を認めつつも、それらに構うことはできないし、いくらかは見て見ぬふりなのかもしれない。そうゆうものなのだと思う。それでいい。誰もそこに対して何かを言うことはない。