ねこにだけはついうっかりぽろっと癒される。癒されるという言葉がよくよく使われるようになったのもここ数年だろうか。わからない。ほろほろっとくずれる焼き菓子みたいな気分になる、ねこの幸せそうに眠りに入っている顔や姿を見ていると。また、このみるくという猫は生クリームであえられたマッシュポテトのようにぽてっとした姿形をしているもんだから、その姿で見上げられたりすると鋭い棘もへにゃああとなってしまうよなかんじ。ねこがいることによって、私はやわらげられていると思うし、この家全体もそうだと思う。すごく大きな役割を背負っているのに、君はなんにも知らなそうな顔をしている。ちなみに黄色いライトは大学生の時にやたらに居ついた研究室から終わり際に勝手にもらってきた。




みるくはテーブルの上に座っているのが好きらしい。ものすごい食いしん坊だから、食べれる物を探しに来るのもあるけれど、それでなくともなぜか気づくとテーブルの上でふんぞりがえっている。それにしてもなんていう顔をしたものか。



発売中のBRUTUSは「まこ」がドドドアップで猫特集。まこblogはいつも見ている。おもわずそそっと購入したのをベッド上のわきに置いといたら、みるくがまこ表紙BRUTUSの上で寝ていた。すごいわこらぼれーしょんだわ、と、ひとりやや興奮を覚える。ちなみに顔は左上の方。






火曜日にメンタルクリニックに行った。薬はだらけていたためまだ残っていたものの、母に行くようにと言われており、それで行かないでいると結局めんどうなことが起こりかねないと思いしぶしぶ、夕方の受付時間ぎりぎりになんとか足を運んだ。さすがに待ち人はもう少なくなっていた。予約診療じゃない日をなんとなく選んでいる。その方が気が楽なような、むしろ重くなるような、よくわからない。昔カウンセリングに行っていた時から、いつでも病院へ行くのがものすごく気が重くていやでいやでたまらないのは、自分の思いが伝わる自信がないから、伝わらないことが苦しいから、伝えられないから、そして本当に全然伝わらなかった時の矛盾した混乱に陥ることを想像しただけで虫唾が走ってくるため。いつも何を言おうか、何を言うべきか、何も言わないことが正しいのか、考えすぎているのかもしれないが、それは癖のようにして存在するから、どうしようもなく切り離せない。

待ち時間に言う事を改めてノートに箇条書きしてみる。言うことは言うことで言わなきゃいけないと思う。とりあえずこれとこれを言えばいいのだ、それだけで用が済むのだと考えに没頭して余計な事を追っ払う。そして番が来てそれを話すと、もう私が終わりから二番目だからかよく話を聞いてくれて色々と話をかえしてくれる、いつもよりなんとなくそんな気がした。ある程度の平穏は保ていても、どうしても家の中で起こるもめごとに遭遇すると一気に堕ちこんでしまう、またそのもめごとの状態やら改めての家族関係、自分の気持ちを話していると、先生に「あなたはアダルト・チルドレンだと思います」と言われた。ビックリした。

アダルト・チルドレン(AC)のことは知っていた。簡単に調べて、ちょっと迷ったけれど自分はまあ違うだろうと確信していた。だから本屋でもACに関する本は手に取らなかった。どの病名とかだっていくつかは当てはまるけど、完全にそうとは自分じゃ分からないし、どれでもないような感じがするし、なにより自分は過去のことをずるずるひきずってる性質があるだけで、病名とかそうゆうのはまあどうでもいいかなと考えていた。ACもべつに病名ではなく、機能不全家族の中で育ったことにより成人してもそれゆえに生きにくい状態にある人のこと、とか、ACである人がそれを確認するための言葉とか、そうゆうことらしい。もとはアルコール依存症の親の下で育ったことにより、ということだったのが、現在ではより広義で使われるようになっている。まあ機能不全家族ではあるかもなあと前々から思っていたから、家族に関する本とかは読んでいたわけだけど。でも、診断名じゃないにせよ、自分がそうゆう何かに当てはめられるということにとてもおどろいてしまった。今でも、そう。

それから先生はACのための本を出して、色々と教えてくれた。そしたら、もうほんとにぜんぶがぜんぶ、ACとはこうゆう人のことですよーみたいなんに自分が当てはまっているのだから、おどろいた。むしろ、自分では特に勘づいていなかった行動の真理に直面した。先生にも言われた。あ、私のしてる行動って、そうゆう意味だわ、と気づいた。あんまりにもどれも私のことが書かれていて、その前から出ていた涙がまた沸き出した。20くらいの箇条書きにされてる考え方や行動や状態、どの文字面も私のことだった。でもその文字たちは、そんなにも一斉にならんで整列していると、あまりにも冷たくて凍てついていてクールな顔してひどく鋭く私のむねに容赦なくぐさぐさ一刺しずつ入ってくるので、よくわからない悲しみに圧された。

それから共依存だとも言われた。共依存についてはよく知らなかった。言葉は知ってたけど、自分には関係ない言葉と思ってたからよく知らなかった。共依存もやっぱり状態のことを差すようなもので、なにに依存してるって、人間にってことらしい。家族にってことらしい。私は自分と家族との境界線を見失っている、というか家自体がそうと言えるらしい。そんな理論があったのか、ととてもおどろく。これらのことは家というもののどうしようもなくしょうがないものとしか思ってなかった。てか、ACの人というのはみんな私と同じ思考の持ち方してるのか、ということもおどろきだ。統一性があるということの驚きは大きい。

また、私は以前から薬を飲むことへの抵抗があって、それは気分はどうせ落ち着いたって思考が削ぎ落とされるわけじゃないんだからっていう思いとかがあったんだけど、どうもそれだけじゃないむずがゆい思いから薬を飲むことへの疑念があった。それは以前からあったものと思う。なんか、薬に対する敵対心がずうっとあった。それで最近思い当ったのが、薬を飲むと確かに心の波の不安定さがおさまってくる、そのことが自分で許せないのだな。私は苦しみから逃れてはいけないのではないかと思う。ずっとずっとその苦しみの渦中に、むしろもっともっと大きな苦しみを味わわなければいけないんだと思う。だから、薬を飲んでこころが落ち着いてしまうと、恐怖をみてしまう。こんなんじゃいけない、もっともっと私は苦しんでいなければいけないのに、薬を飲んで解放されていいわけなんかないと思う。ずるい人間になることが、また恐怖でもあるということ。こうゆう思考もACの思考のひとつらしいが。薬を飲んで楽になるなんて、私には許されていないのではないか。またそうやって矛盾が私のまわりをうずまいているのだ。

ここの先生は今まで行った病院の中で一番いい。わりあい理想的なお医者と思う。他の施設もしっかりしてるからかな。先生はたぶん50歳後半以降の年齢と思うし、だからかなー経験が違うのかなー、今回話してて私が常々思い感じてきたことをまるで言い当てるかのよう。実際は色々パターン化されてるものとかで言い当てる事ができたりするんだろうけど。それにしても、「家がどんどん壊れていきそうに感じるのよね」とかいうことを、そんなすんなり共感することができる人がいるなんてという驚き驚きはむしろショック。今までの医者でこんな風に言葉をかけてくれる人はいなかったし、わかっている人はいなかったから、医者ってそんなもんなんだなと思っていた。まあどこでどう判断するかは人それぞれかな。

とりあえず来月からアディクションの教育グループに参加してみたらどうーということになった。お勧めされたACの本を読んでみることにした。薬はそのまま。薬飲んで楽になっていいのよ、あなた自身は変わることができる、とか言われ診察は終えた。先生はしかりとそうゆうことを言うので思わずその場では頷いてしまう。でも先生は簡単にそうゆうんが治りはしないのもわかっている。まああたりまえだなー。しばらく愕然呆然してお金を払って薬貰って外に出ると雪がまだしらしらと降り続いていた。寒さは感じるけど、それよりもさっきまでのショック感の方が強くてあたまの中を鳥がぴーちくぱーちくしているようだった。いろんな事がショックだったのだ、たぶん。

AC、共依存という定義そのもの、自分がハッキリそれということ、ACの人はみんな自分と同じような思考を持っているということ、先生は私が思うことを見透けられてること、機能不全家族と機能完全家族の違いのこと、発見や驚きや動揺、それらぜんぶひっくるめて大きいゲンコツを頭上から受けたショックさでいっぱいだった。私は機能不全家族で育ったのかなあと思い、自分の幼い頃を思い出そうとして、でもそれをすることはどんどん家を否定していくようで、ぜんぜんできない。抵抗感を覚える。もやもやぐにゃぐにゃしてくる。先生は両親もそれぞれ機能不全家族の中で育った可能性があると言っていたが、それを考えるのも気持ちが悪い。それは確実に思い当たる節があるから。全部気持ち悪くなってくる。本を読むのも息苦しかった。なんか、とにかく、今はまた罪悪感のようなものでいっぱいで、おしだまってしまう日々がつづく。よくわからない。まだうまく受け入れられない。こんなこともあるんだな。こんなに受け入れがたいものってあるのか。べつにACの定義なんてどうでもいいとも言えるけど、一度それを知ってしまったのに知らんぷりはできない。あんまりにも自分がそこにいた。ネット上に広がっている、それらを説明する文字の中にいたから、そうやって語られるものの中にいたから、ちょっとびっくりなのだ。