液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

今日は午後にカウンセリングに行った。病院まで歩いていくことにした。晴れていた、晴れすぎているのがむしろ気掛かりにもなったけれど、まあ45分くらい時間をみとけば大丈夫と思ったところであとはまあ行ってしまえと進むだけにした。歩くのは好きかどうかはよくわからないけど、わざわざあえてよく歩くことを選択する方だ。そこにはなにかいいことがあるような気がする。実際にはなにもない、具体的なことも見えてないし、なにか期待してるんでもない。ただそうゆう幻想をちらつかせられる感じ。それは15分とかじゃだめだ。ある程度の時間と距離が必要で、そうするとやっぱりそこには達成さがあるのかなぁと思う。長距離を走ることを好むというか、そこにはなにかありそうに思えるのもやっぱそれだけぶんの重さみたいのを感じられるからなのかな。
歩いているときは大抵何も考えていない。そのことを頭にのぼらせて歩いていた。そして大学生のころ、家から大学までの長距離を歩いたことを思い出した。正確には覚えていないけれど一時間半くらいは歩いたんだろうか。なんだか一度やってみたかったから、やってみた。どれくらいかかるのかもわからなかったし、半分以上の距離はそれまでに通ったことのない道で一体どんな具合の道筋があるのかもわからなかった。それでもただ進むだけに進まされた。そこに意志はあるんだろうか。今日も歩いて不思議に思った。たとえ向かう先や目的への意志がなくとも足は動くように思えるけど、そこには疑いも残る。意志で自分の足が動いてるかどうかはいくら歩いてもいまいち確信が掴めない。
歩いて家から大学にたどり着くことはしっかりとした現実味がはり付けられたの実感があった。ある先生がよく言っていた身体というものの具体性をこうゆう時に、ああこれが身体なんだなと理解することができた。先生のその時言っていた場面のことだけじゃなくて、一気に世界がぶわあっと開けていって色味を帯びて躍動し始めるのを見ることができた。言葉とその言葉の意味と言葉が指し示すことというのをいっぺんに体得できることができた。それは一回ぽっ切りのできごとというんではなく、時々偶然のようになんでもない事象として起こって、それがたまたまその言葉の存在を知っていたがゆえに、あ、これだと結果的に自分の決定的な判断でわかることができるものとしてある。ことばとはつくづく妙な関係にあらざるをえなくてたいへんなかんじがするようなまったくしないような。どうしようにもできないことだしなあ。コントロールの世界じゃない。