とっても今更だけれど、五十嵐さんの書く歌詞はすてきだな。ひじょうに良いとして学校の先生だったら花丸をあげるだろうくらい。それは5曲入りCD(タイトル覚えておらず)の歌詞カードをなんの気なしに広げてみて読んでみて思ったこと。なんだかびっくりした。昔から、当初からあまり歌詞カードをちゃんと見ることの少なかった私は、それより、歌となって耳に入ってきたときの単語のひびきやつらなりの心地よさや美しさにひかれそこれらとメロディで聴くというのが大部分だったと思う。五十嵐さんの歌はなに言ってるのかほとんどたいていわかるから、聞いていれば歌詞は覚えられる。
でも、ここにきて一曲単位で歌詞をあじわってみると、やはりひじょうによい。よい、の中身をうまく言えないのがなんだけれど。やはりそれが五十嵐さんのもつ、表現することのできる世界の見え方の描写なのだと思う。その絶大な魅力さ。その位置へはふつういくつもの葛藤のようなフィルターがありまくっていて、それをかいくぐっていくことは日常生活を送るにおいて容易でないと思う。また、やはりそれは頭がよくないとできないと思う。五十嵐さんの歌詞にはやはりあたまのよさを感じる。
痛み、苦しみ、絶望、そういった単一的なものでない。それらにうなだれているわけではない。そうではない。立ち向かうのでもない。わからない。そう、わからない。私にはこの人がなにを見ているのかは断定できない。なぜどうしてなにがあればそんなふうに言えるのだろうか、推測しかできず、その私の推測ではおよばないところに五十嵐さんはいるような気がしてならない。ずっとずっとそんなかんじがある。だから、本質的なところを語れない。私の知らないところから世界を見つめている。私はきっとずっとそれに憧れさせられている。そのような関係だろう。