液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


一年に一度くらいだろか、なぜかふいに母と互いに腹をわって話をするようなときがある。わるというほどでもないのかな、普段は言わないで過ぎざるをえない日々に対して実はこんなふうに考えてるのよ的なことを言ったりする機会のこと。なんかまあ私うそでも何でもなく自分の本音みたようなものを話したりする友達とかいないし、本音というか普段の思考内容程度のことだけれど、そんなわけからかいつからか母に話をする機会が生まれたりするのだろう。まあ普段は話さないけれど。めんどくさいし、必要もないし、それくらいの感覚がかぞくというもののような。ひとまず。
そしてそれが今日だったみたい。偶然適当にやってくる。まあわりと前にも話してる内容の繰り返しだったりするんだけど。私にはふたつ上の姉がいるがどうにも偏屈だ。そこについて、母は姉をかわいがれなかったこととか、したらやっぱイグアナの娘ってすごいなーとか、子育てに関してとか、そこから転じて私にくるわけだが。数年前から密かに思っているが、私の負的思考は母から受け継いでいるんじゃないかということ。でもそんなんは人間に普遍なものなのかもと思うし。母なるもの、そして娘とはやはりなんかすごいものが潜んでいるみたいだ。


我ながら少ないネタを使い回すかのようにしてシロップについて。昔からあることとして、rebornという曲を繰り返し聴くことがある。なんかな、やっぱこの曲は他と違ったひっかかりがある。聴いてしまうと、ひとつ思いだし、ひとつ考えだし、またはじめのひとつに立ち戻り、解決のないまままたひとつ、そしてどんどんそのループみたいなことになる。いつだってまず立ち止まらさせられてひっかかりだすのは、この曲を下北沢のQueで聴いたときのこと。6月19日だったんじゃないかな。シロップのワンマン。次のワンマンはクアトロだった。
アンコールで五十嵐さんが一人でアコギで歌った。10年前の話だ。スポットライトをあびて。その光景が頭にこびりついている。ような気がする。それともその時の私の心情か。ずっと自分が見た、覚えている記憶だと思い続けてきたけど、なんか、昨日くらいに突然それが疑わしくなってきて。わからない。それは本当に記憶しているものだろうか。記憶していると作り上げ思いこんでいるものじゃないと果たして言えるのか?そこにある疑わしさを打ち消したりなんてできるのか?そう思い出したらどんどんと疑わしく、疑わしく、疑わしくなっていく。本当に、私は見たことを記憶しているのだろうか。見たという言葉の記憶を記憶しているだけ、言葉の記憶からイメージをつくりあげ、支えているだけではないだろうか。そんなふうなことが頭に浮かびはじめるとカラカラと枯れ葉が風にふかれ散るみたいなぞわぞわした空気に身をつまされる。前から時に疑わしさはあった。しかし疑わなかった、疑わないようにしていた。疑ったらおわりだ。私はそれを記憶している自分でありたいという願望なのだと感じる。願いだ。忘れるなんてありえない、あるわけない、あるわけないんだから。忘れたくなんてないんだ。だって心は今も10年前を覚えているから。10年前とおなじと感じるものを感じるから。それは生々しくて、いきていると感じる。息をし、血が流れてるみたいに。それは私にとって絶対だ。それが頼りで、きっとすがるんだ。それが嘘だなんてあり得ないからという思い、願望と、しかし本当か?と疑う自分とがいるってものかなあ。なんかでも疑い出すとすごくかなしいんだ。まるで過去が否定されるみたいな苦しさ。なんやかそれで結局ぜんぶ意味がわからなくなり、すべて消失、ぼやける。
しかしその後何度も繰り返し聴く。聴く聴く聴く。この曲にのっかって色んなことを思う。昔のこと、今のこと。ずっとそんなような聴き方してるなあー。でもいつだって新鮮みたいに耳に入ってくる。はじめて聴く音みたいにきらきらしてるから不思議だと思う。ばかみたいなうそみたいな話、16歳のときの感覚、視聴覚に戻るというか覚醒するみたいな。私はもう26歳だから、それは真実じゃない。それでも感覚というところがそれを支えてくれている。それもありえるんだとどうしようもなく訴えてくる。それはなんだか頼りのないものであまりに薄っぺらい。誰にもそれを見せられないし伝えられない。そのことがかなしい。本当はそんなものないかもしれないと思える自分がかなしい。それでもやっぱり感覚そのものの器官が蘇るみたいにして私に立ち上がってくるから信じてしまうんだろうなあ。
さあこれはなんの話だったか。