はて、私はやはりシロップに厳しいんだろうかと疑問にあがる。それとも私の耳や体感がおかしんだろうかと。なんかズレてるのか、くるっているのか。でもどう考えても正直で率直な感想だ。それにすぎない。
ただ考えてみたら昔からなんでそんな厳しかったといったら、それはいろんなバンドや音楽を知れば知るほどシロップのライブには歯がゆさがあったからなんだろうなあと思う。そこに今は歯がゆさとかないに等しいけど、どうしても他に見ている人、バンドと比較してしまうところはあるだろう。特にろぼのような人たち見ちゃってると、シロップ見てない間は芳垣さんとかを主に見てたし、そうなると復活後のシロップはまだまだまだまだだと思う。ってゆうか比較もなにもないっちゃないんだけどそこらへんの人たちとは。
もーさむやキセルと比較したって、やはり彼らのライブの安定感みたいなとこ、単純にバンドの成熟度みたいなところではブランクがあるぶんまだまだなんだなあと思う、つまりもっとあげていけるでしょうって思ってる。その穴は主に五十嵐さんなのかもしれない。なんかなあ、わたし個人的には五十嵐さんがやっぱりまだまだなんじゃないかって気がしちゃうんだけどなあ、それはよい意味でこれからに期待というかどうなっていくんだろうという見応えを思わせてくれているところだけど。
シロップはシロップのライブをやるべきだと思う。曲をやるべきじゃないかと思う。なにかあまりにも特別な感じになるのはへんな気がしてしまうから。神聖さみたいなものになっても、私には気持ち悪い。もっとどんどんたれ流してほしいけどなあ。 囲われすぎて、決まった範囲にしか届かないなんてつまらないしもったいないし。とかいうことを勝手に思う。


今月は大学時代の友達と続けて会う機会があって、彼女たちと喋っているとはっとさせられたり、気づかされたりすることがある。そこには自分がいかに伝えようとしているかということがまず大きいのではないかと思う。彼女たちになるべく自分の思い感じていることをよりわかって感じてもらうために、まず自分が自分のなかで自分に近づこうとする。そのステップを彼女たちが与えてくれるということ。伝えたい相手がいてであり、また伝えるための術を探すんだなあと。それは誰でもいいわけではない。そう思うと、人と話す作用とはでかい。
はっとさせられるという点では、またそれは別の作用。