液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

りょっと、気持ちがんばって、ためこんでた4月のライブ記を3本書きあげた。記憶はけっこうその時点でこうゆうことを書くというポイントとして想起しているせいかけっこう覚えてる気はするんだけど雑になりがちになってはしまう。もう5月のライブも1本行ってしまってるしほんとはためたくないんだけどなあ。書き続けて肩痛くなってくる。
しかし部屋にテーブルを設けたのでそれによってここを書けたらいいのにとは思っているのだった。誰に見られてるもないようなここで。


昔は誰かの誰かになりたいと思っていた。でも誰かの誰にも自分にはなれないんだと感じていた。そのことがとても悲しかった。どうしようもないことだから、自分にそのような能力は最初からないんだったと諦めることしかなくて、そのことがまたたてつもなく辛かった。どうしてそうなのだと思った。なぜだと。誰かにはもう誰かがいる。でも私には誰もいないし誰にもなれたりしない。そんなことが無限につづいた。いくら繰り返されてもひっくり返りやしない世界のなかでそれはだから絶望的だった。
結局今もまたそれと同じようなことを思うのだった。けれど今はもうそれでひどく嘆き悲しんだりはしないということなんだ。それは自分が悪いだけで、過去の自分が選択してきたことの結果すべてだ。自分がそうゆう人間なんだということで、そうかと思う、しょうがないんだと思う。それでも生きなきゃならないんだから、それなら無理矢理生きなきゃならない。
かなしみは同じだと思う。悲しいと思う。むなしいし、くだらないと思う。でもよく考えてみたら自分はそんな人間なんだった。何かを望むなんて、なんてバカなんだろうと思うけど、まあバカなんだった実際。
自分だけがひとりのような気がしてしまうのは汚くてずるいと思う。汚さやズルさに逃げることもまた結局は汚くて、汚いということだけはよくわかってしまう。誰かに救われたいと思うのはどうゆうことなんだろうか。こんなんかいてるようではまただからさっさとすべて消えてなくなりたくなる。消えてなくなるなんてないんだってことも同時に染みこんできやがるんだが