液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

体の不調が続いていてこれが厄年というものかと思い知らないわけにはいかない。インフルエンザ、低音障害型感応難聴、そしてなんだか子宮が痛いんだが。考えて見たら昨日の夜に腹筋をしていた時からそういえば変だった。今朝起きた時も妙な痛みで起きた。でもこの朝の妙な痛みは少し前にもなかったっけ? 会社に行ってカッターでゴミを切ろうとしたとき、自然と腹部に力が入るわけだがそのときあまりに痛くて切る行為をそのまま続けられなかった。そのときになってはっきりと子宮が痛いのだと認識した。あまりにピンポイント。だっておへそよりもさらに下っていったらそれ子宮しかないよねって。えええ、子宮が痛いなんて不穏でしかない。なんなのそれと思って今日は仕事もたいしてないし早めに帰ってきて、先週からの疲れの取れなさもあって眠いので寝た。寝て起きたら治ってるといいな、なんてのはもうこの年では許されないのだろうか。つら。どうかなにかストレスとか疲れとか、そうゆうので子宮も痛くなるよねって感じで自然治癒してくれるのを祈るばかりだ。今月は耳鼻科で8千円かかってるだけでも十分痛い。年をとっている最中だ。

はたしてこれは考え事をしすぎてるせいなのか、とか思うけどいや大して大したこと考えてないしなと思う。自分にとって悩むとか考えるっていうことの器の大きさも重さもよくわからないのだ。

自分にとって人を好きになるってなんなのだろうと思う。それは誰かやみんながしていることとはたして同じなのだろうか。いや違うのではないか、というのが最近の見解でもある。ずっと今まで自分でもみんなと同じ、一般的で普遍的で当たり前にこうゆうふうにするのが好きってことでしょうとずっと思ってきていたけど、実は違うのではないか。だってそれでうまくいったためしがない。いつも何か違うとかんじてしまっているではないか。つまりだからそもそも違うのではないか。
思い、思われることが正当ではないのではないか。思われないことに正当性を見出すことができる。よく言う女性が追う恋愛はうまくいかない、女性は追われた方が幸せ、男はそもそも狩猟本能として追う生き物だから、そういったお決まりのかたちに、はたして私は当てはまると言うのかと言うと、当てはまらない方が自分という人間には当然のようにしっくりくるのではないか。
私は私のことをすきになるなんておかしいと思うし、一体なにを見ているのか、それはゆがんでいると疑ぐることをやめられない。その人が見ている私はその人にとって都合のいい私でしかないのではないか、そんな私はうそだ、偽りだと思ってしまう自分がいる。そんなの私じゃない、だから、裏切ることになりかねない。私はもっともっとひどい人間なのに、そんなこと少しもわかっていないじゃない。それなのに好きになられるなんて、おかしいと思ってしまう。というか、私はこわくなってしまうわけだ。理解ができない。
だから愛されるなんてぜんぜんわからない。愛してると言われたって、全然言葉が理解できないでいる。それは一体誰がどんなとき誰に対してどんな風に思えば口にするものなのか、うまくのみこめない。言われる相手としての自分が私の内にはない。誰かが言われることばとして、私の外野に飛んでいるようなものだ。

私は誰からも愛されないという真理が自分の中にある。あってしまう。そのことを無視できないところに今ようやくいる。そのこと自体はくつがえらない。もちろん愛されたいと、思ってもらいたいという願望はある。なのに、そのこと自体を信じることはできないだろう。愛なんて初めからなくて、あったとしても一瞬で生まれ消えてしまう。それくらいうつろいやすくて、おぼろだというのならわかる気がする。永遠なんてない。有限と無限。それはじゃあセックスしてるときにあるのかないのかといったら、それはまた、あなたにとってどうかは、わからない話だ。